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トン トン トン トン……
階段を昇る軽快な足音で、クラピカは目を覚ました。
既に陽は高く、時計の針は午後を過ぎている。
頭が妙に重くて、意識がはっきりしない。
(!!)
ようやく記憶が蘇り、クラピカは飛び起きた。
そこは自室のベッドの上。思わず衣服を確認するが、襟元が
緩んでいる以外、乱れは無い。
――― つまり、レオリオに触れられてはいないのだ。
その連想で、悪夢のような昨夜の出来事を思い出す。
気付いてしまった事実、罪を認めたレオリオ。
怒りと悲しみがクラピカの胸をしめつける。
だが、ノストラード邸で失神し(させられ)た自分が、なぜ下宿で
眠っていたのだろう。
――― レオリオが運んだのか?
その時、部屋の外に人が通る気配を感じた。
「レオリオ!?」
クラピカは思わず呼びかける。しかし、ドアを開けたのは見慣れた
小柄な女性だった。
「クラピカ、起きたの?」
「……センリツ夫人」
センリツはいつもと変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべ、室内に入る。
「いつも早起きの貴方がなかなか起きないから心配していたのよ。
疲れているから寝かせておくようレオリオ先生には言われたけど」
「!!」
『レオリオ』の名前に、クラピカは激しく反応する。
「お腹すいてるでしょう、お食事は下のダイニングルームで摂る?
それともここで…」
「…レオリオは!?」
クラピカはセンリツの声を遮り、レオリオの所在を訊ねた。
彼女らしからぬ剣幕に目を丸くしながらも、センリツは答える。
「レオリオ先生なら、今朝早くに出かけられたわよ」
「……!! どこへ!?」
「いつもの往診ではないの?行き先までは聞いていないわ」
クラピカは愕然とした。しかし正体を知られた盗賊が、いつまでも
同じ場所に居るわけが無い。
ましてや、警察と密接な関係を有する探偵のそばになど、残る方が
おかしい。
次の瞬間、彼女は身を翻してベッドから飛び出た。そしてセンリツの
横を擦り抜け、レオリオの部屋へ向かう。
レオリオの部屋は綺麗に片付いており、何の異変も感じられない。
元から付いていた家具、ランプ、カーテンの幅、すべてが入居した
当初と同じ印象を受ける。
消えたのはレオリオ自身と、彼の医療用カバン、そして愛用していた
コートだけ。
クラピカは今更ながら、レオリオの周到ぶりに感服する。長い間
欺き続けただけあって、手がかりなど残してはいないだろう。
蒼ざめた顔を手で覆い、クラピカは壁に倒れ掛かる。
「何かあったの?クラピカ」
後を追って来たセンリツ夫人が声をかけるが、クラピカは答えられ
なかった。
何をどう言えば良いのかわからない。何より、クラピカ自身 まだ
混乱していたのだ。
「レオリオ先生、どうかなさったの?」
「…………」
――― レオリオは逃げたのだ。
彼は盗賊で、ずっと自分達を欺いていた。その正体がばれたから。
だがクラピカはどうしても口に出せない。
信じられない、いや信じたくなかった。
残酷な真実をまのあたりにしてもなお、記憶にあるのは、いつも
明るく笑う彼の顔。
口は悪いけど、優しくて。
態度は軽薄だけど、誠実で。
弱者に対する思いやりを常に持っていて。
正義感が強く、献身的に医療に従事していた。
――― それらすべてが偽りだったというのか。
彼を思い返す内、クラピカの中で凝り固まっていた糸の
結び目が緩み始めた。
もつれた糸がほどけるように、動揺が鎮まり始める。
(…そんなはずは無い)
論理的な彼女にしては珍しく、直感が主導していた。
(だって、レオリオは……)
導かれるように、クラピカは自室へと引き返す。
ドアを開けた途端、視線が固定された。
先刻は気付かなかったが、机の上に、流線型の細いボトルが
乗っている。
それは、トカイ産の赤ワイン。庶民には手が届かないであろう
最高級の逸品。
ボトルを手にするクラピカの瞳が揺れる。
――― どうしてもトカイの高級ワインが飲みたくてさ―――
昨夜、ノストラード邸で聞いたレオリオの声が脳裏を流れた。
ボトルの中身は減っていないが、コルク栓が中途半端に傷んでおり、
一度は開栓されたものを再び閉じたと推察する。
コルクには針状の細長い金属が突き刺さっていた。それはおそらく、
元は眼鏡の弦であった物。
コルクの栓を、強引に閉じる為に刺したのだろう。
クラピカはボトルを手に持ち、洗面台へと移動する。
そして再び開栓し、フィンガーボウルの中へワインを流し始めた。
真紅の液体がボウルにあふれる。トカイ・ワインの芳醇な香りと共に。
カチリ。
まもなく、ボウルの底から小さな音が聞こえた。
クラピカは流すのを止め、ボウルの中を手で探る。
そして、一つの手応えに触れた。
(やっぱり……)
真っ赤に濡れた手で摘み上げたのは、同じく真っ赤な石を戴いた
一つの指輪。
まぎれもなく、本物のスカーレット・アイだった。
ボトルに入った赤い指輪は、ワインの色が保護色になって、
外から見ても存在がわからない。
レオリオはパーティーの時、混乱にまぎれて抜き取った指輪を
このボトルの中に隠していたのだ。
これなら、男爵にも警官にも見つけられまい。クラピカさえ、彼の
ワイン発言が無ければ、考えつかなかった。
だが、この『戦利品』をクラピカの部屋に置いて行ったということは。
(レオリオ………)
推測が確信に変わる。
レオリオはクラピカの為に、赤い指輪を盗んだのだ。
数々のリスクを承知で。
正体が露見する事も覚悟して。
クラピカの指輪を、取り戻す為に。
ただ、クラピカの為だけに。
(………………)
初めて、クラピカの瞳に涙があふれた。
疑いようの無い、彼の想いを感じる。
言葉で聞いてはいないが、確かにわかった。
抱きしめて口接けられた時に。
(レオリオは…… 私を……)
――― 愛していると。
あんなふうに脅かしておきながら、薬で眠らせたのは
最初から、陵辱する気も脅迫する気も無かったからだ。
レオリオはクラピカを傷つけたりなど決してしない。
その理由は、ただひとつ。
(……根拠の無い、推測ばかりだな…)
自嘲するように微笑し、クラピカは閉じていた瞳を開ける。
そして決意した。
推測だけでは、何も解決しないから。
「センリツ夫人」
ドアのそばで心配そうに様子を見ていたセンリツは、名を呼ばれて
歩み寄る。
クラピカは洗った手を拭きながら、いつもと変わらぬ声音で告げた。
「私は、探偵を廃業しようと思う」
「え!?」
夫人は驚いてクラピカを見る。彼女は晴れやかな表情をしており、
それは決意の固さの現れに他ならない。
そう悟り、センリツはあえて止めず、静かに微笑んだ。
「そう…… でも、ハンゾー警部さん達は惜しむでしょうね」
「仕方ないのだよ。もう他の事件に関わっている暇は無い」
「お家に戻るの?」
センリツは寂しげに問う。クラピカが公爵令嬢に戻ったら、もう気軽には
会えなくなるから。
「いや、まだだ」
本当なら、両親の仇クロロ・モリアーティと対決した時に戻るべき
だった。それでもレオリオと共に探偵業を継続したのは、スカーレット・
アイ探索の為だとクラピカ自身思っていたが、真相は違っていたのかも
知れない。
その事も含めて、真相を知りたいと痛切に願う。
「……まだ最後の事件が解決していないのだ。決着を付けるまで、
家には戻らない」
そう宣言したクラピカは、今まで見た事の無いほど美しく、そして
謎めいた笑顔だったと、センリツ夫人は後々まで記憶する。
まもなく、名探偵クラピカ・ホームズはハンター街から姿を消した。
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