〜もう一つの顔〜



下宿に戻ってからも、クラピカは黙り込んだままだった。
センリツ夫人が声をかけても生返事ばかりで、さすがに心配になる。

「クラピカ、これ飲めよ。ぐっすり眠れるから」
そう言ってレオリオは、お茶に粉薬を入れて差し出した。
クラピカはカウチに座ったまま、無言でカップを受け取る。
「じゃあ、おやすみ」
歩み去るレオリオの後ろ姿を、クラピカの視線が追う。
「……レオリオ」
意を決した声で、クラピカは呼びかけた。
レオリオの足が止まる。
「…何だ?」
「…………」
すがるような瞳が彼を見ていた。
知ってか知らずか、レオリオは振り返ろうとしない。
「…………。……あの……、……今夜は…」
「…………」
「その…… …そばに、居て……くれないか…?」

クラピカは俯いたまま、呟くように言った。
張り詰めたような空気に時間を止められたような気がする。

レオリオはドアのそばに立ったまま微動だにしない。
やがて大きく息をつき、静かに言った。
「……いっときの感情で、ものを言うなよ。お前らしくないぜ」
「…………」
それは婉曲な拒絶。なかば予想していた返答に、クラピカは
目を閉じた。
「もう何も考えずに、ゆっくり休みな」
「…………」
「おやすみ、クラピカ」
「…………」

ドアが閉じられる。
暗い室内にポツンと座ったクラピカは、確信した思いに胸を
締めつけられた。

 『今夜は傍にいてくれ』

それが何を意味するかくらいわかっている。良家の娘が軽率に
口にしてよい言葉ではなかった。
だけどあえて言ったのは、明晰な頭脳で考えぬいた末の賭け。
クラピカは深く溜息をつき、手の中のカップに視線を移す。
暖かなお茶に、苦い現実の香りがした。






静かに夜が更けてゆく。
既に人通りも途絶えた路上を夜露が濡らしている。
深い眠りについた街を静寂が包む。
そんな中、一台の自転車が風のように駆け抜けて行った。



宴の途中で放棄されたノストラード邸は、数時間前の賑わいが
嘘のように静まり返っている。
主も使用人も立ち去り、扉は警察によって閉ざされ、物音ひとつ
聞こえない。
だがホールの片隅には、密かに動く人影があった。

真っ暗な部屋の中、月光だけを頼りに、床を這い、手探りで何かを
追い求めている。
倒れたままのテーブル、そのクロスの下、椅子の影、カーテンの裏側と、
息を潜めて移動してゆく。
(あった)
手に触れた感覚を確かめ、安堵の息をつく。
――― 次の瞬間。

「探し物は見つかったか」
!!」
突如として流れた声に、弾かれるように振り返る。
同時に、ランプの灯りが周囲を照らした。
「お前……どうしてここに」
「それはこちらの台詞だ」
冷たい空気が張り詰める。
「…茶、飲まなかったのかよ」
「眠り薬入りは御免こうむる」
彼は苦笑し、床に伏せていた体を起こして立ち上がった。
薄闇の中でも、背格好、声、気配、匂い、シルエット。すべてに
見覚えがある。

「レオリオ…」

彼を見つめるクラピカの顔が辛そうに歪む。
レオリオは衣服の埃を払い、改めて向き直った。
「悪かったよ。どーしてもトカイの最高級ワインを飲んでみたくってさ」
明るい口調で言い放っても、クラピカの表情は変わらない。
「…なーんて言い訳は、通用しねえ?」
元より、ごまかせるとは思っていなかったが、レオリオは苦笑と共に
息をつく。
「降参。さすがは名探偵クラピカ・ホームズだ」
「やはり、お前が犯人だったのだな」


二人の間に横たわる空間に、ひどく距離を感じる。まるで見えない壁に
遮られているような気がした。
「なんでわかった?」
――― お前の性格なら、嫌いな貴族に いわれのない窃盗の嫌疑を
かけられたら、怒って暴挙に出るのが普通だ。なのに顔色ひとつ変えず
平然としていた。その態度の方がよほど不審ではないか」
「なるほどな」
「身体検査に応じたのは、盗品を身につけていなかったからだろう。
どこかに隠したのなら、明日には現場の検分をするとハンゾー警部が
言っていたから、今夜中に回収に来ると思ったのだ」
「鋭いねぇ」
「だから私を眠らせようとしたのだな。万一、下宿を脱け出すのを
悟られては怪しまれるから」
「ご名答」
「お前がここに蛇と縄を持ち込んで、騒ぎが起きた隙に令嬢の手から
指輪を抜き取ったのか」
「当たり」
「…今回が初犯ではないのだろう?」
「ああ」
クラピカの指摘に、レオリオは端的な肯定を返す。その態度は普段と
少しも変わらず、むしろ表面上は冷静を装っているクラピカの方が
よほど動揺していた。
最初に不審を感じてから、みるみる内に深まった疑惑。
それでも、心のどこかでは違うと信じていた。
――― いや、信じたかったのに。
「……なぜなのだ。お前は医者で収入もあって、生活に困窮している
わけでもないのに、なぜ窃盗など……」
「クラピカ。お前も見ただろ?ここに来てた連中の飾り立てた姿をさ」
相変わらず落ち着いた声と口調で、レオリオはたたみかける。
「あいつらがつけてた光り物の一粒で、何人の子供が飢えをしのげると
思う?スラムには、貧乏で病気になっても治療を受けられない子供や
まともなメシも食えねえ子供たちが大勢いるんだぜ」
クラピカはスラムの実態を情報でしか知りえない。それだけにレオリオの
言葉は、重い現実として突きつけられた。
「何とかしたくても、オレの稼ぎだけじゃまだまだ足りねえ。だから、
余ってる所から少し分けてもらってたのさ」
確かに、彼の仕業と思われる未解決の窃盗事件の被害者は、総じて
貴族や悪徳業者などの金持ちばかりだ。
レオリオの言う事にも一理ある。かといって犯罪は犯罪。何より、
彼はクラピカを欺いていたのだから。
「…その為に、私を利用していたのか?」
警察に信用のある探偵の助手をしていれば、様々な情報も警備も
手に取るようにわかる。第一に、疑われない。
「私を騙して、利用していたのだな?カムフラージュの為に」
「…お前だってオレを引っ掛けようとしただろ? あのセリフ、ヘンだと
思ったぜ」

――― 『今夜はそばにいてくれ』―――

あの時、レオリオが応じていたら、彼が犯人という推理は誤りだと
立証されたのだ。
しかし彼は断った。なぜなら今夜、指輪の回収に行かねばならないから。
その瞬間、クラピカの疑惑は確定に変わったのである。

せつない溜息が無意識に吐き出される。
「……で、オレをどうする?ハンゾー警部に突き出すか?」
「……そうだな。お前のような嘘吐きは、投獄するべきだろう。だが、
その前に」
クラピカはキッと瞳を上げた。
「スカーレット・アイを渡せ。あれは我が公爵家の物だ」
向けられたランプの眩しさに、レオリオは目を細める。
「私が気付かなかったと思うのか?男爵が持っていた指輪は偽物だ。
令嬢が嵌めていた方が、本物だったのだよ」
「やっぱ、バレてたか」
レオリオは苦笑する。男爵の節穴ならともかく、本来の持ち主の
目をごまかすのは至難だろうと承知していた。
だからこそ、クラピカに令嬢の手元を見せぬよういろいろ画策したと
いうのに。
「事前にあれだけウロウロしていた令嬢だ、父親の謀を吹き込むなど
造作も無かったのだろう」
「まあな。あのお転婆娘、予想通り本物と偽物をすり替えてくれたぜ。
金庫の奥には手が出ねえけど、おかげで助かった」
「……私の大切な物だと知っていて、狙ったのか」
「知ってなきゃ、狙わねえよ」
クラピカのまなざしが怒りと悲しみに揺れる。
胸にあふれる激情と、自覚したばかりの恋心が葛藤していた。
それを振り切るかのように、クラピカは彼に詰め寄る。
「指輪を返せ!お前などに触らせるのも汚らわしい!!」
掴みかかった瞬間、ランプが手から離れた。
ガラスの割れる音が響き、視界を失う。
――― !?」

気付いたら、クラピカは強い力で両手の自由を奪われていた。
「悪ぃけど
―――
引き寄せられ、間近で声が聞こえる。
「オレはまだ捕まるわけにはいかねぇんだよ。経過の気になる患者が
大勢いるんでね、見逃がしてくれねぇか?」
「ふざけるな!」
クラピカは一蹴する。予想していたのか、レオリオは困ったように笑い、
そのまま足を引っ掛けて体重をかけた。
「!?」
一瞬 体が浮き、背中を強くぶつける。両の手首は封じられたまま、
クラピカは床に倒された。
「何をする、離せ!!」
「黙っててくれねえなら、無理やり黙らせるしかねえよな。
――― 世間に知れたら困るようなネタでも作って、さ」
「……レオリオ!?」
思いがけない展開に、クラピカは驚愕する。