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朝から降っていた霧雨は午後にはやんで、薄曇の湿気た空が街を
覆っている。
ほとんど視界の無い窓の外を、クラピカは ぼんやりと見つめていた。
「クラピカ?」
名を呼ばれ、ふと我に返る。ドアの前には往診から戻ったばかりの
レオリオが立っていた。
「何ボーッとしてんだ?具合でも悪いのか?」
「……いや、大丈夫だ」
彼が入室した事にも気付かなかった不覚を恥じるように、クラピカは
視線を逸らせる。
「ならいいが、季節の変わり目だからな。体調崩さねえように気を
つけろよ」
レオリオは湿ったコートを傍らのハンガーに掛けながら、医師らしく
忠告した。
しかし彼女が心ここにあらずな理由は、気候云々などでは無い事
くらい気付いている。
「…この空模様なら、明日の夜会は予定通り開催されそうだな」
クラピカは不意に口を開いた。やはり気になっているのだろう。
「そうだな。それに、どのみちパーティーは屋内だろ」
椅子に腰掛けながらレオリオは、どこか嘲るような口調で応える。
彼はあまり貴族を好きではないらしく、それはクラピカも以前から
気付いていた。
ノストラード男爵に限って言えばクラピカも嫌悪に近い感情があるが、
彼女自身も貴族階級である為、あまり追求できずにいる。
「……ハンゾー警部が言うには、近年、わが国には予告状を出す
盗賊は出没していないらしいのだよ」
「じゃあ犯人は外国から来たのかな」
「だとしても不可解だ。予告などして警戒させたら、盗みにくくなる
だけではないか?」
「よほど自信があるんだろうぜ」
「もう一つ、『赤い指輪』が狙われた理由が不明だ。男爵家には
他にも様々な貴重品が数多くあるという噂なのに、なぜ」
「あれ普段は金庫の中なんだろ?パーティーで令嬢が身につけるなら、
盗るチャンスだと思ったんじゃねえか?」
クラピカは息をつく。
「……君の意見は実に明解だな」
言いかえれば、身も蓋も無いという意味だが。
深刻なクラピカとは対照的に、レオリオはずいぶん楽観的に見える。
そんな彼の態度が、クラピカには内心、救いでもあった。
「レオリオ、万一の時の為に銃を携帯して行ってくれるか?」
「ああ。オレもそのつもりで、メンテナンスしておいたぜ。今日は他にも
明日の準備に奔走してさ、新しい正装もやっと仕立て上がった……
…って、待てよ?」
レオリオはふいに何かを思い出したように詰め寄った。
「正装つー事は、クラピカ!お前もドレス着るのか!?」
目を輝かせて問われた言葉に、クラピカは唖然と固まる。
レオリオの顔に『興味津々』という文字が見える気がした。
あからさまな好奇のまなざしに、こめかみが引きつってくる。
「……何を言い出すかと思えば。生憎だが、ドレスではなく燕尾服だ。
あんな動きにくい物を着ていては、いざという時、何もできないからな」
「なんだ、残念」
本気なのか悪ふざけなのかわからないレオリオに、クラピカは
キッと鋭い瞳を向ける。
「遊びではないのだよ、レオリオ」
「わかってるよ」
「今までの事件とは違うのだからな」
「わかってるって。……でもホント残念、クラピカがドレスならオレ、
喜んでエスコートさせてもらったのに」
(!)
途端に、クラピカの胸の奥がドキンと鳴った。
一瞬、ドレスをまとった自分と踊るレオリオの姿が脳裏に浮かぶ。
「でも見た目が男同士じゃダンスもできねえよなー」
ところが彼女の想像を砕く一言と共に、レオリオはクスクスと笑う。
クラピカは一瞬でもときめいてしまった己を深く後悔し、プイと横を
向いた。
「せいぜい、ステップを間違えてレディたちに笑われぬようにな!」
それはクラピカの精一杯の皮肉だったが、レオリオはさらりと受け流す。
「確かにそうだな。練習しといた方がいいか」
長身の影が立ち上がる。クラピカはそれを視界の端で映していたが、
次の瞬間、目前に手が差し出された。
「Shall we dance?」
「――― えっ?」
レオリオはクラピカの返事も聞かず、彼女の手を取る。
そして引き寄せるように立ち上がらせた。
「な、何を……」
「一曲、お相手願います。レディ」
そう言って身体を引き寄せ、細い腰に手を回す。
握った手を高く上げられ、クラピカは自然とレオリオの顔を見上げる
体勢になってしまう。
心臓が、時計よりも大きく鳴った。
そのリズムに合わせるように、足を踏み出す。
リードされるまま、前に、後ろに。
昔、父に習ったダンスのステップ。
年月を経ても、身体が記憶している。
久しぶりの懐かしいワルツ。
――― だがここはホールではない。
ターンしようと腕を伸ばした時、背後の机にぶつかってしまった。
「あっ…」
「危ね…!」
後ろに倒れ込みそうになったクラピカを、危うくレオリオは抱きとめる。
「…大丈夫か?クラピカ」
「あ、ああ……」
「この部屋ん中じゃ狭すぎたか」
そう言って笑うレオリオとは対照的に、クラピカは硬直していた。
彼女は今、身体を支えるように片手を机についたレオリオの腕の中。
ダンス中ならまだ言い訳できるが、今では単純に抱きしめられて
いるだけである。
我に返ると、恥ずかしいなどというものではない。
そんな彼女に、レオリオも気付いたようだった。
「…クラピカ?」
不審そうな声に、クラピカは思わず顔を上げる。
間近にはレオリオの顔。
(――― 群青色の瞳だったのか)
何の脈絡も無く、突然そんな思考がクラピカの脳裏をよぎった。
今までダークカラーだと思っていたのに、初めて知った新たな事実。
彼の瞳がまっすぐに見つめている。
吸いこまれそうな深い色。
それが次第に近づいて来る。
輪郭がぼやけ、視界が翳ってゆく。
「――― 悪ぃ」
(……え?)
不意にレオリオはクラピカの身体を離した。
あまりに唐突で、クラピカが不思議に感じる程。
「踊ってる場合じゃなかったよな。……明日の支度しねぇと」
そう言って、レオリオはスタスタと部屋を出て行った。一度もクラピカに
視線を向ける事もなく。
――― まるで顔を背けるように。
一方、クラピカの方は、何が起きたのかわかっていない。
やがて徐々に思考能力が戻ると、一気に体温が上がった。
(――― 今………キス……しようとした……?)
思わず、両手で顔を隠してしまう。
間違いなく、レオリオの顔は意図的に接近していた。
しかし、その行為に対して少しも疑問や不自然さを感じなかった
自分の方が問題である。
無意識に、だが当然の経緯のように受けようとしていたのだから。
寸前で回避したのは、奇跡に近い。
――― いや、レオリオが止めてくれたのだ。
あとほんのわずかで唇は触れ合っていたのに。
彼が礼節をわきまえた紳士だったから?
それとも、男装だから その気にならなかったのか?
単に、無作法な男の悪ふざけだったのか?
……一体、どこまで本気だったのだろう。
不思議な事がたくさんある。
今は、そんな事よりも集中しなくてはならない事態があるのに。
『スカーレット・アイ』の事を考えなくてはならないのに。
運命のパーティーは、もう明日に迫っているのに。
(父上……、母上……、お許し下さい……)
クラピカは両親の写真をおさめた懐中時計を握り締め、謝罪の言葉を
繰り返す。
現在、クルタ公爵家の爵位は、彼女の父の弟が仮に継いでいる。
叔父は、いつかクラピカが探偵業を終えた時、女公爵として受け継ぐ
事を前提に預かったのだ。
無論クラピカもそのつもりだった。
だが、今のクラピカは。
爵位を継いだら不可能になるような事を、望み始めている。
ただでさえレオリオとは身分が違いすぎるというのに。
その自覚が、はっきりと彼女の心に現れていた。
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