「ヴァンパイア・ハンター」
            〜暗雲〜



その日の午後、クラピカは洗濯物を取り込みに庭へ出た。
時間的にはまだ早いが、天気が崩れ始めている。
朝方は晴れていたというのに、午後から暗雲が立ち込めて
きて、今にも雨が落ちそうだ。
シーツを干している竿は位置が高いので、干す時には
レオリオが掛けてくれたが、今は診察時間内でもあるし、
彼に頼むわけにはゆかない。
左腕を高く上げるとまだ少し傷が痛んだが、それでも何とか
手が届き、生乾きのシーツを引っ張る。
─── !!」
瞬間、頭上を大きな影がよぎり、クラピカはハッとして顔を
上げた。
「お前は……!」
そこにいたのは一匹のハルピュイア。人間の女の顔と胸を
した、半人半鳥の魔物だ。
ハスキーな声がクラピカに降り注ぐ。
「見つけたわ
─── こんな所に隠れていたのね」
「逃げ隠れした覚えは無い」
クラピカは気丈にハルピュイアに言い返す。
「同じことよ。でも、わかっているでしょ? どこへ行こうと
貴方は逃げられない。無駄なあがきは今回で最後にして
欲しいわね」
ハルピュイアは不敵に微笑し、翼をはためかす。
ほぼ同時にクラピカは、素早く右手を振った。
ほんの一瞬、鋭い影が空を裂く。
────── !!」
豊かな胸を刺し貫かれ、ハルピュイアは叫びを上げた。
彼女を襲ったのは小さな剣状の刃。それはクラピカの
隠し武器の一つで、右手に絡めた細い鎖から伸びている。
しかし致命傷には至らなかったらしく、ハルピュイアは
ふらつきながらも飛び去ってゆく。
はばたきと共に、傷ついた胸から鮮血が吹き出した。
「!」
ハルピュイアの血は猛毒なのだ、まともに浴びたら命は無い。
クラピカは咄嗟にシーツをかぶり、危うく血を避ける。



─── クラピカっ!?」
遠ざかる羽音と前後して、レオリオの呼び声が聞こえた。
クラピカはシーツをはずし、駆け寄って来たレオリオの姿を
認識する。
ハルピュイアは既に彼方の空へ飛び去っていた。
「大丈夫かっ!? 血は浴びなかったただろうな!?」
「……ああ、私に怪我は無い」
クラピカの無事を確認し、レオリオに安堵の表情が広がる。
「…だが、すまない。シーツを一枚、ダメにしてしまった」
クラピカの代わりに血を浴びたシーツには、赤黒い染みが
広がっている。もはや、洗っても使い物にならないだろう。
「何言ってんだよ。お前が無事ならいいんだ。……にしても、
いくら曇天だからって、真昼間から魔物が出るなんてなぁ…」
「…………」
「物騒になったもんだぜ。ま、何事も無かったから良しと
すっか」
「…………」
ふと見ると、クラピカは厳しい表情のまま黙り込んでいる。
レオリオはそれを魔物に遭遇した驚きと恐怖ゆえかと
考えた。
「ああ、まったく無事ってわけでも無ぇか。お前、今夜は
シーツ無しで寝る羽目になっちまったな」
クラピカを元気づけようと、レオリオはつとめて明るく悪戯っ
ぽい口調で笑いかける。
しかし、クラピカは真顔で返した。
「……問題は無い。私は、今すぐここを出る」
─── 何だって!?」




「おい、一体どうしたってんだよ?」
病室へ戻り、荷物をまとめるクラピカをレオリオは引き止める。
しかしクラピカは黙り込んだままで、その顔は初対面の頃と
同じ、厳しく隙の無い表情。
ここしばらくの穏やかな顔つきとは別人のようだ。
「クラピカ!傷はまだ完治してねぇんだぞ、旅の許可なんか
出すわけにはゆかねぇ!!
─── 医者の言いつけ聞けねぇのか!?」
もう動ける。気遣い無用だ」
クラピカはマントをまとい、荷物を肩に担ぐとレオリオに向き直り、
別れを告げる。
「世話になったが、これで失礼する。達者でな」
「クラピカっ!!」
強い意志を秘めた瞳と口調に、レオリオは口先で説得しても
無駄だと悟った。だが、それで諦める彼ではなく、実力行使を
決意して、病室の出入り口に立ちふさがる。
「事情くらい説明しろよ!恩を着せるつもりは無ぇが、いくら
何でも身勝手すぎねーか!? オレは医者として、完治もまだの
怪我人をハイそうですかと見送るわけには行かねぇ!! ここは
絶対に通さねえからな!」
─── ………」
レオリオの言葉は激昂してはいたが、正論と言えよう。
クラピカは逡巡した。
彼は一応、命の恩人である。強行突破するのは礼儀に反するし、
性格も、ここ数日でよくわかっているから、正直に話した方が
納得してくれるかも知れない。
そう判断し、クラピカは一旦荷物を下ろすとベッドに腰掛けた。
「……承知した。説明しよう、レオリオ」
扉に張り付いて通せんぼをしていたレオリオは、両腕を下げて、
だけどその場に立ったまま、クラピカを見つめていた。

「私が滞在を続けたら、村の皆に危害が及ぶことになる」
「危害?何でだよ」
クラピカはレオリオと瞳を合わせず、言葉を続ける。
「…先刻のハルピュイアにとどめを刺せなかった。奴は必ず
主の元に帰りつき、私がこの村にいる事を告げるだろう」
「主……?」
レオリオは怪訝に思った。単独生態のハルピュイアに、『主』
だと?
「そうだ。ハルピュイアだけでなく、私が倒したワーウルフも
奴の配下。……あいつは、私を狙っているのだよ…」
クラピカは憎悪の光が宿った瞳で、この場にいない何者かを
睨みつけている。両の拳は間接が白く浮き出るほど握りしめ
られていた。
─── もしかして、そいつが……お前の一族を…?」
レオリオの問いかけにクラピカは、一瞬ビクリと肩を震わせる。
そして、うなずいた。
不吉な予感がレオリオの脳裏をかすめる。
ハルピュイアもワーウルフも、基本的に単体行動で棲息する
魔物だ。なぜなら群なさずとも充分に強く、人間にも魔物にも
恐れられている種族だから。
それらが配下となり果てるほどの『主』とは何者なのか。
「…誰なんだ、そいつは」
レオリオの問いに、クラピカは一拍の間を置いて答える。
─── ヴァンパイアだ」

ヴァンパイア
─── 吸血鬼は、棲息数はきわめて少ないが、
凶悪かつ狡猾、残忍な化物として世界中から恐れられている。
苦手な物は太陽光と十字架。夜行性で、飛行能力もあると
言われ、人間の男の姿に似た容貌だが、鋭い牙を持ち、人の
生き血を糧とする、魔物の最高峰。
それがクラピカを狙っているとは
───

「奴は他にもゴーレム(石像巨人)やエキドナ(半蛇女)など
無数の魔物を配下にしている。もし連中がここへ来たら、村は
全滅するかも知れないぞ。…4年前の、我が一族のようにな」
なかば他人事のように感情を含まない声でクラピカは言う。
一族を虐殺された時の暗い記憶がイヤでも脳裏に蘇っていた。
─── もう2度と、あんな惨劇を見たくない。
「だから村を出る。私さえいなくなれば、奴等もここには立ち
寄るまい。皆に迷惑をかけたくないのだよ」
「…………」
クラピカの言い分はもっともである。万一ヴァンパイアに襲撃
されたら、こんな辺境の小村など、ひとたまりもない。
しかしレオリオは一つの疑問に思考を占拠されていた。
ヴァンパイアがその気になれば、いかにクラピカが剣技の達人
とはいえ、4年もの間、逃れられるとは思えない。
それに、ハルピュイアはワーウルフほど凶暴ではないが、
残虐性を持つ魔物だ。なのに対峙した人間を殺さず、更には
攻撃されたのに反撃せずに去るなど、不自然きわまりない。
─── 主とやらに、殺さぬよう命令されているのなら別だが。

「わかったら、もう止めるなよ。レオリオ」
「……クラピカ」
思い当たる結論を胸に、レオリオは再び問い掛ける。
「そのヴァンパイアは……お前を食用に狙ってんのか?」
「…………」
クラピカは答えない。それはすなわち、レオリオの推測を確信
させた。
「違うんだな。じゃあ……、
─── 花嫁にしようとしてんのか」
「!」
それまでずっと視線を逸らせていたクラピカは、パッと顔を上げて
レオリオを見た。

─── 自身の性別を教えた覚えは無い。
初対面の夜、レオリオはクラピカを少年と思い込んでいたはず。
なのに、一体いつ気付いたのか。

凝視するクラピカをレオリオは、困惑したような拗ねているような
複雑な表情で見つめ返す。
「……オレは医者だぜ。気がついて当たり前だろ」
それは嘘ではないものの、当初はクラピカの中性的な容姿や
態度に見誤らされていたのが事実。
しかし医学的見地と直感で漠然と疑いを持っており、確信した
のはアゴンの葬儀の後、墓地で転びかけた彼女を抱きとめた時
である。
「…………」
「…………」
クラピカは別に、彼を騙していたわけではない。あえて性別を
名乗る必然性も無いから、黙っていただけだ。
レオリオも、自分が一方的に間違えたのだし、患者の性別が
どうあれ治療には関係無いから、文句を言う筋合いでは無い。
しかし改めて認識した今、二人の間を今までとは違う不自然な
沈黙が流れていた。
─── ヴァンパイアの事だけど」
気まずさを無視して、レオリオは強引に本題へ戻る。
「お前を、花嫁にしようと狙っているんだな?」
「……。…そうだ」
肯定された瞬間、レオリオの胸を冷たい炎が焼いた。
ヴァンパイアが人間を花嫁にする事自体は、言い伝えや史実
等でも語られているし、種族は違えど男と女だから不思議は
無い。
しかし『花嫁』と言えば聞こえは良いが、要は気に入った娘を
攫って監禁し、吸血して自我を消し、犯し、子を生ませ、やがて
ヴァンパイアが飽きるか 娘が年老いるかしたら捨てる
───
すなわち殺害・廃棄の意味だが。
虜もしくは奴隷も同然で、目をつけられた娘に逃れる術は無い
──── と言われている。
「……よく…今まで無事だったな…」
レオリオは言葉を選びながら、素朴な疑問をつぶやく。
「ヴァンパイアが花嫁を娶るには、いくつかの掟があって、それを
遵守しなくてはならないそうだ」
再び目を逸らしたクラピカは、忌々しそうに話を続けた。
「まず、相手が女である事。これは当然だな。次に、その娘が
健康体である事。病持ちでは子を為せないからだそうだ。そして、
満16歳の誕生日を迎えている事
───
くだらない話だ、とクラピカは吐き捨てる。
聞きながら、レオリオの胸に宿った不可解な痛みは、熱い怒り
へと変わり始めていた。
「私は現在15歳だ。だから今までは見逃されてきたのだろう。
しかし今春の誕生日で……16歳になる」
「……!」
切迫した危機感を感じているのか、クラピカは身を竦ませた。
しかし次の瞬間には、すぐにいつもの凛とした態度に戻る。
「だが私はヴァンパイアの手に落ちる気など毛頭無い。…私の
家族を……同胞たちを皆殺しにした魔物の花嫁になど、誰が
なるものか。来るなら来い、返り討ちにしてやる」
キッと顔を上げたクラピカの瞳には決意が満ちている。
一族郎党を皆殺しにされた憎悪と憤怒が、天涯孤独になっても、
少女を強く誇り高く生きさせたのだろう。
それは同時に、痛々しいほど美しくもあった。
クラピカは扉の前で立ち尽くしているレオリオに歩み寄る。
「……こういう事情だ。わかったら、そこを退け」
「クラピカ…!」
レオリオの胸の痛みが次第に大きくなってゆく。
「お前にも……村の皆にも感謝している。だから、少しでも遠く
離れておきたいのだよ」
「クラピカ!!」
「これ以上……私にかまうな!!」
叫ぶようなクラピカの声が病室に響く。
彼女はレオリオを押しのけ、制止を振り切って教会を飛び出した。



「おや、君は
─── ?」
クラピカは玄関先で、一人の男とぶつかりそうになりながら
すれ違う。
「待てよ、クラピカ
─── !」
「どうしました、レオリオ君」
クラピカを追って来たレオリオに声をかけたのは、現在この教会を
預かっている神父のサトツ。彼は山向こうの町へ出向いていたが、
今日が帰宅の日だったのだ。
「どいてくれ!あいつが行っちまう!!」
「落ちつきなさい。一体、何があったんですか」
動転したレオリオの頭に、サトツの冷静な声音が静かに響く。
視界の遠くに駆け去ってゆくクラピカの後ろ姿に、レオリオの心は
一つの結論を打ち出していた。


まもなく、空を覆っていた暗い雲から雨が落ち始める。
日中だというのに辺りは翳り、遠雷が聞こえてきた。



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