「通り雨
宵闇



梅雨入り以来、お約束のように雨天が続く。
庭に咲いた紫陽花は、日々その色を変えている。
暗い空から落ちる水滴は、まるで女神の涙。


雨のせいでバイトが休みになったレオリオは、自宅で一人、机に
向かっていた。
しかし彼が手にしているのは、医学書ではなく貯金通帳 および
家計簿。
「この分なら、実行できる日も遠くねぇな」
レオリオは通帳に記載された数字を眺め、嬉しそうに呟く。
遠大な計画を胸にバイトを増やし、節約生活を始めて約一年。
クラピカとのデート以外は徹底して倹約し、友人達に守銭奴だの
つきあいが悪いだのとからかわれても耐え続けた。
その甲斐あって、貯蓄は目標額に到達しようとしている。
ただ目的達成の前に巨大な障害があるのも事実だが、それは実行
する時になってから対策を考えよう。
厄介な問題の解決方法を保留して、レオリオは通帳を片付けた。
そして、先刻から入れ始めていた風呂の湯を止めに浴室へ向かう。
─── その時。

 ピンポーン

ふいに玄関のチャイムが鳴り、レオリオは反射的に時計を見た。
もう夜の9時を過ぎている。こんな時間に、一体誰が訪ねて
来たのやら。

訝しみながら、レオリオはドアの前に立つ。
─── どちらさま?」
返事は、すぐには無かった。
不審がつのり、レオリオはドアに耳を寄せる。家賃の安さだけが
取り柄の、築30年木造プレハブ1DKの古アパートの部屋には、
魚眼レンズの覗き穴など無い。
「…誰だよ?」
「…………レオ…リオ……」
「!!」
雨音に混じって、かすかな声だが、レオリオの耳にはハッキリと
届いた。
「私……だ」
この声を聞き間違えるはずがない。
即座にドアを開けたレオリオの前には、やはりクラピカが立っていた。
「……クラピカ!?」
しかし全身ずぶぬれの彼女を見て、レオリオは驚愕の声を上げる。
「どうしたんだよ、お前!?」
空模様は最近ずっと不安定で、一日中、雨が降ったりやんだりの
繰り返し。そんな時期に傘も持たず外出するようなクラピカでは
ないのに。
重く水を含んだ金の髪が白い顔に張り付き、闇に溶けそうな黒い
ワンピースからは、ポタポタと水滴が落ち続けている。
「と、とにかく中入れ。今タオルを……」
レオリオの言葉は途中で途切れた。
冷たい身体が、倒れ込むようにぶつかって来たから。
「ク…クラピカ?」
一瞬、意識を失いでもしたのかと思ったが、そうではなく、彼女は
レオリオの胸にすがりついている。
「…おい?」
「…………」
答えは無い。しかし、明らかにいつものクラピカとは様子が違う。
「どうしたんだ?何があった?」
「…………」
胸に埋まった顔からも表情をうかがえない。
髪から頬に伝い落ちる水滴が、まるで涙のように見えてしまう。
気のせいではなく、クラピカの沈み込んだ気配が如実に伝わり、
レオリオは追及するのをやめて 彼女を抱きしめた。

包み込むように。
胸の中におさまりきらない感情を現すように。
自らの体温を分け与えるように。

「……ぃ…て…」
ふと、クラピカが口を開く。
─── ん?」
抱いて…くれ…

レオリオは我が耳を疑った。
かすかな声だったけれど、確かに聞いた。その言葉の意味する
行為は、ただひとつ。
クラピカの方から、こんなにストレートに求められたのは初めてだ。
普段の状況であれば喜んで実行するのだが、医学生としての知識と
良識が、彼の欲望にブレーキをかける。

「その前に、風呂入って来な。このままじゃ風邪ひいちまう」


ちょうど湯を入れたばかりだからと、レオリオはクラピカを浴室へ
連れてゆく。彼女の身体から落ちた水滴が床を濡らすのも一向に
気にせず。
「よぉっく温まるんだぞ。それまで出て来んじゃねえ。わかったな?」
レオリオはそう言ってタオルを渡し、洗面所を出て行った。

ずぶぬれのクラピカを抱きしめた為に、レオリオのシャツもGパンも
ビッショリと濡れてしまっている。
彼は自分の着替えを済ませ、タンスの中から新品のTシャツと
小さめのスエットパンツを出し、再び洗面所の引き戸を開けた。
「着替え、ここに置いとくからな」
そう言ってガラス戸の前に衣服を置き、濡れたシャツを洗濯籠に
放り込む。
その際、クラピカが脱いだ服にもチラリと目を向けた。
雨水を含んだワンピースはきちんとたたまれており、裾にわずかな
泥はねが付着している以外 少しも汚れておらず、傷んだ様子も
破れも無い。
どうやらクラピカの異変の原因は、サスペンスドラマでよくある
不幸な出来事では無いようだ。
確信して、レオリオは内心ホッと息をつく。
スリガラス越しに淡く映る影に、やましい気持ちが起きぬよう、
彼は足早に洗面所を出て行った。



半時間後、クラピカはレオリオが置いていった上下を着て出て来た。
冷えきっていた体は温まり、蒼白だった頬にも赤みが射している。
「ほら、これ飲めよ」
レオリオはクラピカの好きな銘柄の紅茶に、とっておきのブランデーを
多めに入れて差し出した。
室内に満ちていた湿気を、湯気が中和する。
「……落ちついたか?」
紅茶を口に運んで一息つくクラピカの正面に座り、レオリオは
改めて問いかけた。
ずっとうつむいていた、伏せがちの瞳が彼を映す。
「……ああ」
その声はまだ少し弱々しいけれど、いつもと同じはっきりした発音に
戻っており、レオリオは安堵する。
「こんな時期なんだから、出かける時には傘持ってかねぇとダメだろ。
天気予報見なかったのか?」
「…電車の中に忘れてきてしまったのだよ」
「駅から歩いて来たのか?電話すりゃあ迎えに行ったのに」
「そうか……考えつかなかった」
「お前なあ」
レオリオは苦笑しつつ、クラピカの隣へ移動した。
「何の為にオレがいると思ってんだ?オレは、お前の言うことなら
何でも聞いてやるんだぜ?」
口調はふざけ半分だけれど、内容は真実。
間近でのぞきこんで来る顔を、クラピカも見つめ返した。

レオリオは本当に、クラピカの意志を尊重してくれる。
いつもクラピカの事を第一に考えてくれる。
何よりも大切にしてくれる。
温かい風呂も、熱い紅茶も、明るい会話も、すべて彼の愛情と
思いやり。
優しい笑顔に、心が軽くなってゆく。

胸に重く立ち込めていた暗雲が晴れる気がして、クラピカは大きく
息を吐いた。
─── 今日……」
「ん?」
「両親の……命日だったのだ」
一瞬、雨音が強くなったような気がした。
クラピカが12歳の時に亡くなった両親。二人は飛行機の事故で、
遺体も戻らず海に散ってしまったと聞く。
彼女が着ていたシックな黒一色のワンピースは喪服だったのだ。
「…そっか」
レオリオはそれだけしか言わなかった。
彼も幼い頃に両親を亡くした身。こういう時の気持ちは、痛いほど
わかるから。
黙ったままクラピカを抱き寄せ、まだ少し湿っている髪を優しく
撫ぜる。
「…子供扱いしないで欲しいのだよ。もう5年も前の事だし、毎年
この日は来るのだからな」
「ああ、わかってるよ」
それでも彼の手を払おうとはしないクラピカに、レオリオは強がり
だろうと思った。彼女はそういう性格だから。
「……でも、今日は……」
ふと、クラピカの視線が落ちる。その気配にレオリオは手を止めた。
「…………とても…… イヤな事が、あって……」
「……クラピカ?」
表情を隠すように、クラピカの手が自らの顔を覆う。
偽証や悪口を嫌う彼女が愚痴や文句をこぼすのは珍しく、レオリオは
少なからず驚いた。
よもや泣いているのではないかと、焦りがこみ上げる。
「だけど……お前の顔を見たら、安心した……」
しかし手を下ろしたクラピカは、穏やかな表情をしており 涙は無い。
彼女はそのまま、レオリオの肩に頭をもたせかける。
「迷惑をかけて、すまないな…」
「それだけかよ」
「え?」
「誘っておいて、おあずけか?それは無ぇぜ」
悪戯っぽく片目を閉じるレオリオに、クラピカは目を丸くする。
そして、次には頬を染めた。
玄関先で、口をついた台詞を思い出す。あの時は情緒不安定で、
混乱した感情をセーブできず、つい望んでしまったのだ。
─── 一番てっとり早く幸せになれる方法を。

「……でも、お前を逃げ道にするつもりは…」
戸惑うクラピカの言葉を遮るように、レオリオは額にキスをする。
「言っただろ?オレはお前の言う事なら、何でも聞くって」
「……。そうだな…」
同意して、クラピカはフワリと微笑んだ。
目を閉じ、再び彼の肩に手を回す。


冷えた心を癒してくれるのは、風呂でも紅茶でもなく、愛しい恋人。

───
雨の降る夜はそばにいて。凍える私をあたためて。