「末は博士か花嫁か」

〜壱幕〜

 


文明開化の鐘が鳴った明治の夜明けも今は昔と過ぎゆきて、
頃は大正浪漫の時代。


「クラピカ。おい、クラピカはどこだ」
武家の趣を色濃く残す屋敷の一角に、男の声が響く。
しかし呼んだ相手は一向に現れず、代わりに返事をしたのは
優しげな声音の家政婦だった。
「クラピカさんなら、お出かけになりましたよ」
「たった今女学校から帰ったばかりなのにか?」
当主は憮然としながら、鉄砲玉のような姪を思って溜息をつく。
「困った奴だ。大事な話があるって言うのに……あいつ、最近
外出が多いようだが、毎日どこをうろついてるんだ?」
家政婦は静かな微笑みを浮かべて返答した。
「心穏やかに時間を過ごせる場所を見つけたようですわ」


噂の主・クラピカはルクソ女学校の最上級生。
紺地に白の矢絣着物に海老茶の袴、ハーフブーツで自転車を
漕ぎ、髪につけた大きなリボンをなびかせて、一路 ゼビル川の
遊歩道を目指してゆく。
そこは広く明るい川原で、幼い子供たちが遊びに興じる声を
除けば、静かで穏やかな癒しの空間。
並木道の木々が大きく張り出した木陰は、読書に最適だった。
以前からクラピカはそこで、一人きりの優雅な時間を満喫して
いたのだが。

「よう、ハイカラさん」
自転車を止めた音に振り返り、先客が声をかける。
クラピカは意識的に無表情を作り、本を片手に川原へ下りた。
「俗な呼び方をするなと言っただろう。私の名はクラピカだと
何度言えばわかる」
「んじゃ改めて。オッス、クラピカ」
「………」
『オッス』などと言われて、どう返せと言うのだ。この男は。
そんな思考でツンと視線を逸らし、男の隣に腰掛ける。
「相変わらず無愛想だなあ」
「…そっちは相変わらず馴れ馴れしいな」
「性分なんでね」
そう笑う男は、木で鼻を括ったようなクラピカの言葉にもまったく
機嫌を害する様子は無い。
彼の名はレオリオ。狩人大学の医学生である。
二人が出会ったのは、ひと月ほど前だった。



その日、いつものように川原へ向かうクラピカの自転車の前に、
一匹の犬が飛び出して来た。
「危ない
――― !」
間一髪で避けたものの、自転車は転倒し、クラピカも地面に
投げ出される。
「ミケ!!」
その時、犬を追って学生風の大柄な男が現れた。
お世辞にも上等とは言えない、くたびれた着物とヨレヨレの
袴の男は、慌てた様子で駆け寄り、犬の引き綱を捕まえる。
クラピカは上半身を起こすと、厳しい瞳で睨みつけた。
「散歩中に犬の引き綱を離すとは、飼い主として無責任かつ
怠慢なのだよ!」
いきなり怒鳴られた男は驚いた様子でクラピカを見るが、
すぐに手を差し出し謝罪する。
「悪かった。怪我は無いか?」
その時、男の視線がクラピカの膝に止まった。
袴がわずかに破れ、血の染みが浮き上がっている。
「ちょっと診せろ」
言うなり、男はクラピカの袴を捲り上げた。
「なっ、何をする!?」
剣道と合気道で鍛えたクラピカの手が、狙いたがわず男の
顔面に炸裂する。
続いて蹴りを入れようとするが、足首を掴まえられてしまった。
「離せ!無礼者!!」
足が駄目ならと徒手空拳を構えるが、二発目は予想外にも
受け止められてしまった。
「オレは医者だ!暴れんな怪我人!」
不意の一喝に、クラピカの思考が停止する。
その隙に、男は膝の傷を診た。
「骨には異常なし、軽い打撲と擦り傷だけだな。出血も、たいした
事は無い…っと」
男は懐から手拭いを出し、包帯代わりにクラピカの膝へ巻く。
「とりあえず止血な。後でちゃんと薬塗っとけよ」
あまりの手際の良さに呆然としていたクラピカだが、その一言で
我に返った。
「……医者だと?」
「訂正。正確には医学生だよ」
そう言って男は倒れた自転車を起こすと、改めてクラピカに
手を差し出す。
クラピカは何か気恥ずかしくて、不機嫌な表情のまま、それでも
彼の手を取り立ち上がった。
「家まで送ろうか?」
「気遣い無用なのだよ」
「そっか。助かった。こいつの散歩が済んだら、別のバイトが
入ってるからさ」
あっけらかんと笑う男に、クラピカは別の意味で呆然とする。
「じゃ、気をつけてな。ハイカラさん」
男は犬を連れて、すたすたと去って行ってしまった。

――― 何なのだ、あの男は。

無礼者下品礼儀知らずと内心で罵りつつ、クラピカは自宅へ
引き返す。
血の上った頭では読書も身に入らないと考えたからだが、帰宅
した後も、なかなか平常心に戻れなかった。
親代わりの叔父には平素から『お転婆も程々にしろ』と窘められて
いるので黙っておいて、家政婦にだけ袴の破れの理由を話す。

「まあ、それではお礼も申し上げずに?」
しかし話のわかる優しい家政婦・センリツは、開口一番そう
言った。
「礼などと。あんな失礼な男、初めて見たのだよ」
「失礼ではないでしょう。仮にも手当てしていただいたのだから、
お礼を言うのは当然じゃなくて?」
「…………」
言われてみればそうかも知れないと、クラピカは初めて考える。
傷を診て、倒れた自転車を起こして、送ろうかと
――― 実際には
本気だったのかどうか疑問だが
――― 言ってくれた。
ただ怒るだけだった自分は、もしかして狭量だったのだろうか。
対して男は、手当ての時に動くなと怒鳴った以外、一言も反論
しなかったというのに。
「どちらにお住まいの、何という方でした?」
「……聞いていない」
「お名前も伺わなかったんですか?」
「…………」
「クラピカさんらしくありませんね」
「…………」
「とりあえず、手拭いは洗濯しておきますから」
「あ、いや、いい。私がする」
クラピカは咄嗟にセンリツの手から手拭いを取る。
「あの……代わりに、袴の繕いを頼むのだよ」
不思議そうな瞳を向けるセンリツから逃れるように、クラピカは
洗濯場へ走って行った。

慣れない洗濯は時間がかかり、酸化して繊維に染み付いた
血液はうっすらと痕が残ってしまい、完全には落ちてくれない。
これ以上こすったら、元々上質とはいえない生地が擦り切れて
しまいそうなので、クラピカは渋々諦める。
手当ての礼も込めて、借りを返す為にも新品の手拭いを買って
贈るべきだろうか?
生乾きの手拭いをよく見ると、あちこち修繕の痕跡がある。
大切にしている物なのか、単に貧しいゆえなのか。
とにかく返そうと考えるものの、男の名前も住まいも知らない。
川原近くの通りで彼の風体を訪ね歩くという手段もあるが、
それはあまりにも恥ずかしいし、年頃の娘が男を探し回ったり
したら、妙な噂が立ちかねない。
そこでクラピカは考えた。
犬の散歩は、大抵コースが決まっている。
あの辺りで待っていれば、向こうから来るのではないか
―――



翌日、クラピカは女学校から帰るや 速攻で川原へ向かった。
果たして彼女の推測は正しく、しばらく後、犬を連れた長身の
影が現れる。
「お?昨日のハイカラさんじゃねえか」
笑顔で声をかけられ、クラピカは困ってしまった。
こういう場合、どんな顔で応じれば良かったのだろうか?
困惑のまま、唇を引き結び、キッと挑むような瞳を上げ、無言で
彼が近づくのを待つ。
「傷は大丈夫かよ?って、聞くまでもねえか。自転車乗ってるし」
――― これ」
クラピカは懐から手拭いを取り出し、差し出した。
「返すのだよ。昨日は礼も言わずに失礼した」
「それは……」
男は驚いたように目を丸くする。
「洗ったが、血の痕が落ちきらなかった。望むなら、新しい品を
用意するが」
「いいよ。元々ボロボロだったし。捨てないでくれただけでも
感謝するぜ。ありがとな」
嬉しそうに謝辞を告げ、男は感慨深げに手拭いを受け取る。
その表情が、なぜかクラピカの心にかかった。
「クゥーン」
しかし、不意にすりよって来た犬に気を奪われる。
「おいおい、なんだよミケ。お前オレにはなかなか懐かねえのに、
ハイカラさんには愛想いいじゃねえか」
「…懐かれていないのか?飼い主のくせに」
「オレは飼い主じゃねえよ。バイトで散歩係やってるだけ」
犬の白い頭を撫でながら、男はさらりと言う。
そういえば、昨日『散歩が済んだら別のバイトが入ってる』と
言っていた。
勤労学生なら珍しくは無いが、日雇いを掛け持ちしているほど
貧窮しているのに、医学を学べるものだろうか。
興味本位で聞くべき事ではないのだが、クラピカはつい問うて
しまった。
「……そんなに働いて、いつ勉強するのだ?」
「夜に」
「夜?」
「そ。オレ狩人大学の教授ん家で書生やってるから、教科書には
事欠かないんだよな」
狩人大学は帝都で一番の名門である。その医学部の学生なら
かなりのエリートだ。
クラピカは正直驚いたが、それが顔に出てしまったのだろう。
男がニヤリと笑って覗き込む。
「見直したかよ?」
「!」
「ハイカラさんはいい家のお嬢さんみたいだから、下々の苦労は
わかんねえだろうけどさ、昨日みたく高飛車ーな態度、やめといた
方がいいぞ?」
「余計な…」
「でねーと、可愛い顔が台無しだぜ」
――― 世話だ、と言おうとしたが、続いた彼の言葉に絶句する。
クラピカは自分の顔が赤く染まってゆくのに気づき、せめてもの
虚勢で睨みつけた。
楽しげに笑いながら、男は踵を返す。
「待て、名は何と言う !?」
「ミケ。パドキア通りにあるゾルディック邸の飼い犬だよ」
「違う!お前の名だ!」
「ああオレ?レオリオ」
「……レオリオか。私は…」
「いい、明日聞くから」
名乗ろうとしたクラピカを遮り、レオリオは告げた。
それは言外に『明日また会おう』という意味ではないのか?
「じゃあな、ハイカラさん」

手を振るレオリオの後姿を見送ったクラピカは、その日も読書に
身が入らなかった。
そして翌日、今度は名前を名乗る為に、またも川原へ自転車を
飛ばす事になる。

やがてそれは、そのまま日課となってしまった。