夏の憂鬱
〜前編〜



裏の事情でレオリオに腹を立てたクラピカは、宣言通り、
翌日の朝いちで叔父の住むスナカの郊外を訪ねて行った。

交通機関の発達で昼前には到着したけれど、田舎だけに
緑が豊富で、都会の喧騒や人混みとも無縁の、静かで
平穏な地域だ。
木造の風情を残した駅舎も、のどかな田園風景も、古き
よき「昭和」の初め頃にタイムスリップしたかのような
印象を受ける。
クラピカは澄んだ空気に深呼吸して、叔父の住む庵を
目指した。
真夏の陽射しが容赦なく降りそそぐ。
叔父宅への近道は舗装されていない為、サンダル履きの
足が痛んだ。
久しく歩いていない小石や砂利の道につまづかないよう、
足元を確かめながら、細いあぜ道を進む。
――― その時。

「・・・!!!
一匹の大きな蜘蛛がクラピカの目前に這い出てきた。
田舎はコレの出現率が高いのだが、いきなり登場されては
心の準備も間に合わない。
「う…わ!!」
避けようとして たたらを踏んだ足が滑り、クラピカは脇の
水田に転落してしまった。
己の間抜けぶりに、溜息をつく。
――― 大丈夫ですか?」
不意にかけられた声に、驚いて振り返る。
立っていたのは、長身の若い男。品の良いスーツ姿で、洗練
された雰囲気をまとっており、どう見ても田舎の住人ではない。
先刻の醜態を見られたと思うと、顔から火が出そうだった。
「怪我はありませんか?」
男は手を差し出し、親切そうに問いかける。
「大丈夫です。ご心配なく」
クラピカは彼のスーツが汚れる事を考慮して、自力で道へと
戻った。
蜘蛛はとうにどこかへ消えており、安堵と、恥ずかしさもあって
クラピカは急ぎ立ち去りかける。
「お待ちなさい。若い女性がそんな姿で歩いていたら、周囲の
不審をかってしまいます」
男の言う通り、クラピカはTシャツもジーンズも泥まみれの
散々な姿だった。
「この先に僕の知り合いの家があるから、そこで何とかして
もらいましょう」
「いえ、結構です。私の家もすぐ近くですから」
そう言って、クラピカは叔父の家の屋根を示す。
しかし男は一瞬目を見開くと、クスリと笑ってクラピカのカバンを
手に持った。
「ちょうど良い。僕もあの家に向かっていたところです」
――― え?」
思わず見上げたクラピカに、男は優雅に会釈した。
「僕はノヴという者です。貴方は、先輩のお嬢さんでしょう?」
聞きなれない呼称に、クラピカは固まった。



蝉時雨の中、二人は目的の建物に着く。
叔父宅は数奇屋造りの旧家で、昔は庄屋の屋敷だったと
言われる年代物の邸宅。
陶芸家の一人暮らしには相応しいが、少々広すぎると常々
言っている。
「早かったな、ノ……」
開け放された間口から顔を出した叔父は、クラピカの姿を
見てぎょっとした。
「……久しぶりです、叔父上」
「…どうした、その格好」
「あぜ道で僕とぶつかりましてね。はずみで水田に落として
しまったんですよ。申し訳ありません」
ノヴは微笑しながら、すらすらと偽証する。
叔父は怪訝そうに見ていたが、まずは泥だらけの姪を何とか
せねばと思ったらしい。
旅行カバンにも泥が沁みており、着替えは多分全滅だ。
「ちょっと待ってろ」
叔父はクラピカを玄関に待たせ、一旦家の中へ入る。
そして再び現れると、一枚の浴衣を渡した。
「風呂入って来い。話はその後だ」



クラピカは浴室で泥と汗を洗い流し、洗濯機に衣類を
放り込む。
到着早々、ろくな事が無いと落ち込んでしまう。
そもそもここへ来た原因自体、かなりろくでもなかったが。

「……叔父上」
改めて挨拶するべく赴いた居間では、叔父がノヴと対面で
座っていた。
「おや、これは美しい。よくお似合いだ」
ノヴはクラピカの和装を見るや、滑らかな口調で賞賛する。
そんな扱いを受けるのが照れくさく、クラピカは恥ずかしそうに
頭を下げた。
叔父はというと、仏頂面でクラピカを見ている。
几帳面な姪が連絡もなく突然来た事は元より、『一人で』と
いう事実を訝しんでいるらしい。
その目つきに、経緯を見透かされているような気がして
クラピカは滞在依頼を躊躇った。
「僕は遠慮しましょうか?」
「ああ、いや構わん。お前の方が先約だしな」
そう言って、叔父はクラピカに向き直る。
「クラピカ、ノヴは先週からウチに下宿してるんだ。今
とりかかってる論文が仕上がるまでだが、邪魔をするなよ」
「せっかくの水入らずなのにすみません。ですが、この村には
宿というものが無いのでね」
指先で眼鏡を持ち上げながら、ノヴは補足する。
だがクラピカは困惑していた。よもや来客中とは予想外で、
いくら家が広くても、叔父がいるといっても、見ず知らずの
若い男と、一つ屋根の下で同居とは。
「文句あるなら帰れ」
姪の心境を読み取ったように、叔父は言う。
普段は気に喰わない男と一緒に住んでいるくせに、といった
ところだろう。
「先輩、そんな言い方をしなくても」
ノヴが微笑しながら口を挟んだ。
「せっかくお嬢さんが帰省して来たんですよ。長旅で疲れて
いるでしょうし、まずはゆっくり休ませてあげないと」
「…………」
「…………」
『お嬢さん』という単語が背筋に冷たいものを走らせて、
クラピカと叔父はひきつってしまう。
「ところで先輩。唐突ですが頼みがあります」
不意にノヴは真剣な表情に変わる。
「何だ?」
「ええ。実は、お嬢さんに
―――
思いがけない指名に、クラピカは目をまたたいた。





「クラピカ」
洗い終わった洗濯物を干していると、叔父が声をかけてきた。
「一日や二日じゃ、乾きそうにねぇな」
彼とてダテに一人暮らしはしていない。シミ抜きが必要な
ものもあるし、読みは確かだ。
「ちょっと来い」

叔父に招かれて入ったのは、普段使っていない祖母の部屋。
畳の上には、何枚もの夏着物や浴衣が並べられている。
「…どうしたのだ、これは?」
「俺の母親
――― お前の婆さんの物だよ。この前の大掃除の
時に出てきたんで、まだ着られそうなのを見つくろっておいた。
洗濯・修繕済みだから、すぐ着られるぞ」
「お祖母さまの……」
思い返せば、クラピカの記憶の中の祖母は常に和装だった。
懐かしさが胸を占め、クラピカは着物を手に取る。
中には、しつけ糸も解いていない新品さえあった。
「そいつは多分、お前の母親の為に誂えたんだろうよ」
言われてみれば、年代物のアンティーク生地が目立つ中、
何枚かは現代的な若向きの色柄だ。
「代わりにお前が着てやるといい。やっと丈も合うように
なったしな」
「……叔父上…」
しんみりとした雰囲気が室内を漂う。
「そういうわけで、着替えは心配ない。夏が終わるまで滞在
しても、俺は一向にかまわんぞ」
次の瞬間、カラカラという笑い声が空気を一蹴した。
クラピカは眩暈を覚えてこめかみを押さえる。
――― この叔父が、こんなにメロウな男のはずが無かった。

「まあ当分はのんびりしてろ。ノヴの話も、よく考えて良い返事
してやれ。時間はたくさんある事だしよ。はっはっは!」
妙に明るい態度で、叔父は部屋を出て行く。
逆に、頭痛の種が増えたクラピカは、深い深い溜息をついた。