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「クラピカ、大丈夫かなあ……」
ゴン達はクラピカの部屋の前で様子を伺っていた。
ドアには鍵がかかっており、壊してまで入室するわけにはゆかない。
ショックを受けたであろうクラピカの気持ちを考えると、やたらに声を
かけるのもためらわれた。
「まだ泣いてたら、可哀想だね…」
ゴンがクラピカの泣き顔を見たのは初めてである。気丈な姿しか
知らない彼が心配するのも当然であろう。
そんなゴンの肩に手を置いて、レオリオは言った。
「でも、あいつはそれを乗り越えてきたんだぜ」
今と違って、当時のクラピカは一人ぼっちだった。それでも彼女は
耐えたのだから。
「大丈夫さ、ゴン。何歳だろうと、あいつはクラピカなんだし」
「……うん」
キルアの言葉に、ゴンはようやく微笑を浮かべる。
だが、次の瞬間。
バターン!!!
とてつもない勢いで、ドアが開いた。
見た目は木製だが、内部に防弾合金をはめ込んだVIP仕様の重厚な
扉が、ゴン達三人を跳ね飛ばす。
「なっ、何!?」
「いってぇ〜」
「クラピカ!?」
名を呼ばれて、クラピカは初めて廊下に転がる三人の姿を認めた。
レオリオを見た途端、彼女の顔が真っ赤に変わる。
「…どこ行くの、クラピカ!?」
旅姿である事に気づき、ゴンが問う。だがクラピカは答えず、無言のまま
駆け出した。
「クラピカ!?」
「待ってよ!!」
慌てて三人は後を追う。
クラピカはホテルの造りを把握しておらず、エレベーターホールとは逆の
方向へ走って行き、非常階段に突き当たった。
そしてわずかな逡巡の後、非常扉を開く。
外はとうに夜の帳が下りていて、真っ暗な中、非常灯だけがわずかに
階段を照らしている。
その高さと暗さに、クラピカは一瞬息を呑んだ。
「――― 待てよっ!!」
だが追いついてきた彼等を見るや、意を決して階段を駆け降り始める。
しかし途中で、高層階特有の強風が彼女の足を救った。
「あっ…」
「危ねえ!!」
体勢を崩したクラピカを、危ういところでレオリオが捕らえる。
だが腕を掴んだ彼の手を、クラピカは反射的に振りほどいた。
幸い、手すりに掴まって転落は免れ、クラピカは脱力したように足元の
階段へ座り込む。
「おい、大丈夫か」
それでも、クラピカは差し出されたレオリオの手を全身で拒絶する。
怯えるように身を縮め、困惑した目で彼を見た。
「私は……私は、お前など知らない…」
わずかに震える声音は『他人の口調』。だから共にはいられないと、
言外に告げている。
正直、レオリオの胸は痛んだが、それを責める筋合いではない。
「…仕方ねえよ。病気なんだから」
「でもクラピカはクラピカだよ。仲間だって事に変わりはないでしょ?」
重い空気を吹き飛ばすようにゴンは言い放った。
その声は風の音にも消されず強く響く。
「友達だから、困ってる時は力になるよ。オレ達にできる事なら、何でも
してあげる。……だからクラピカ、黙ってどこかへ行かないで!」
「……ゴン」
「友達だから…、…心配だから」
「…………」
それは説得というより懇願に近い。泣きそうな声と表情で告げるゴンに、
クラピカは罪悪感を覚えて俯いた。
「――― 知らないんなら、今から知り合えば良いじゃん」
ゴンの背後からキルアが口を出す。
「今日が初対面だって思えば問題無くない?」
「そうだよ!それで、もう一回 友達になろうよ、クラピカ!」
キルアの提案にゴンは嬉々として同意した。
「元に戻っても、戻らなくても、オレ達はクラピカの友達だからね!」
戸惑っていたクラピカの脳裏に、手帳の文面が蘇る。
『血縁ではなくても仲間はできる』―――
(そういう事か……)
クラピカはかすかに微笑する。
こんな彼等だから、自分も心を許したのだろう。
大切にしていた仲間なのだと、実感できた。
――― だけど。
「クラピカ」
レオリオの声に、クラピカはビクリと後ずさる。
彼は『仲間』ではない。未来の自分が好きな男、そして未来の自分を
好いている男なのだ。
違和感と動揺でクラピカは体を固くする。
「……クラピカ?」
「……お前は……『仲間』じゃない……」
「レオリオも仲間だよ!大切な――― 」
「ゴン」
割り込むゴンをキルアが制する。
「こっから先は二人の問題らしいから」
キルアはゴンの腕を引き、背後の踊り場に引っ込んでしまった。
助けを求めるようにゴンの姿を目で追うクラピカに、レオリオは静かな
口調で問いかける。
「…オレが怖いか?」
「…………」
クラピカの態度を見ていれば、彼女が何に対してこだわっているのか
見当はつく。
レオリオは内心、焦燥や苛立ちを自覚していたが、医者志望としても
男としても、何も知らない11歳の彼女に以前のような関係を求められる
はずがなかった。
「…ゴンが言っただろ。オレもお前の仲間だよ。お前を傷つけるような
真似はしない」
「…………」
「オレはお前の仲間で味方。そんだけだよ」
優しい笑顔の奥に、哀しそうな色を感じる。
レオリオが気遣ってくれている事が、クラピカにははっきりとわかった。
――― 思えば、最初からそうだった。
階段から落ちた自分を心配して、抱きかかえて運ぼうとしたり。
理由は知らないが蜘蛛嫌いになった自分の前から、蜘蛛の絵を
隠そうとしたり。
料理の授受に互いの了承を得なくても良いほど、わざわざ好きな茶葉を
選んで淹れてくれるほど、親しかったのだ。
キルアも言っていたではないか。
『今この世で誰よりもあんたを大切に思ってるのはレオリオ』と―――
一族の事を聞いた時も、ごまかしや嘘を言われる方が嫌だったはず。
偽証はもっとも恥ずべき行為だと、そう教育されてきたのだから。
父のような優しい手の持ち主。
あんなに反発した男だけど、なぜ未来の自分が好きになったのか、
少しだけわかるような気がした。
「オレがイヤなら、必要以上には近づかねえよ」
黙ったままのクラピカに、レオリオは踵を返す。
「ゴン、頼むな」
そう言って、座り込んでいるクラピカのエスコートを依頼した。
だがレオリオの背中を見た瞬間、クラピカの胸を激しい痛みが貫く。
――― イヤだ。
ふいに沸き起こった感情に、自答する。
――― 何がイヤだ?置き去られる事が?
自覚するより早く、体が動く。
「行かないで、レオリオ!」
クラピカ自身、予想もしない言葉が飛び出した。
驚いて振り返るレオリオに向かって手を伸ばす。
「クラピカ……!?」
伸ばされ返した彼の手を見て、微笑が浮かぶ。
――― 未来の自分に、少しだけ感謝した。
しかし手が触れ合う直前、クラピカの視界がガクンと下がる。
足場を考えずに立ち上がった為、段の端を踏み外したのだ。
「クラピカぁっ!!」
階段の真ん中付近にいたクラピカは、下の踊り場まで転がり落ちた。
それから数時間、転落したクラピカは意識を失ったまま。
ゴン達もさすがに心配し、ホテルのハウスドクターに看てもらったが、
特に異常は無く、軽い脳震盪と診断された。
明け方になって、彼女はようやく目を覚ます。
「……何をしているのだ?三人とも――― 」
ベッドに横たわる自分を囲んで不安の目を向ける面々に、クラピカは
いとも不思議そうに問いかけた。
一昨日と同じ、16歳の顔で。
昼前にはハンター協会に要請した医者が到着し、クラピカを診察したが、
何も問題は無かった。
「結局、振り回されたのはオレ達だけかよ」
「でも良かったじゃない」
文句と安堵のセリフをこぼしつつ、徹夜していたゴンとキルアは仮眠を
取りに隣室へ戻ってゆく。
当のクラピカには、11歳に戻っていた昨日一日の記憶が無かった。
レオリオに説明してもらっても、ただキョトンと目をまたたくばかり。
「朝食を摂りに階段を下りようとしていたところまでは覚えている。だが
その後は……」
「無理に思い出さなくたっていいぜ」
まだ少し痛む頭に手を触れながら、クラピカは思案する。
ゴンやキルアもだが、特にレオリオは、すっかり疲れた風情だった。
記憶が退行していた間に何をしたのか自覚は無いが、11歳の自分が
今よりずっと我侭な子供だった事は確かである。
「迷惑をかけたのだろう?すまなかったな」
「迷惑って事は無ぇけどよ……」
安心したような、どこか複雑な表情でレオリオは笑う。
忘れられて悲しかったのは事実だが、現在のクラピカならば決して
口にしないであろう言葉を聞けたのは、今にして思えば少し嬉しい。
不謹慎ながら、あれはあれで可愛いかったのだ。
「オレの事、父親みたいだって言ってくれたぜ」
聞いた途端、クラピカは目を丸くした。
「まだ10代なのにさ、ちょっとあんまりじゃねえ?」
「…確かに無礼な話だ。父上はお前と違って、知的で聡明で物静かな
紳士だったというのに」
「…………あのなァ」
いささか本気でいじけるレオリオに、クラピカはクスリと笑う。
彼には内緒だが、父親は昔から彼女の理想の男性像だったのだ。
何も知らない幼い自分が、レオリオを父のようだと思ったという事は、
たとえ記憶が戻らなくても、いずれは彼に惹かれたに違いない。
「……でも、良かった…」
クラピカは呟いて目を閉じる。
ずっと、昔の自分に教えたかった。レオリオに出会うという事を。
彼を愛して、愛されて、救われる。もう一度、幸せになれるのだと。
だから、希望を持って生きて欲しいと伝えたかった。
孤独に心を閉ざし、哀しみだけを背負った自分に。
「……ああ、良かったぜ」
クラピカとは違う意味だったが、レオリオは同意して息をつく。
「帰って来てくれて、ありがとな」
そう言って、クラピカの手を握り締めた。
そのまま引き寄せ、抱き締める。
「もうオレの事、忘れないでくれよ」
「……レオリオ」
レオリオらしからぬ気弱な口調は、大切な相手を失いかけていた
不安を今になって実感しているからだろう。
クラピカは優しく微笑み、彼の肩を抱き返す。
「大丈夫なのだよ、レオリオ」
たとえ何歳でも、いつ出会っていても、記憶を失くしてしまっても、
きっとレオリオを好きになるから。
花が空に伸びゆくように、海を越える旅人のように、
いつも導かれているから。
――― 愛が呼ぶ方へ。
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