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目を開けた時、視界に映ったのは、あるはずの空ではなかった。
見慣れた木造の屋根でもなく、やたらに高い大理石の天井。
「……大丈夫?」
かけられた声に、クラピカはハッとして視線を向ける。
横たわった彼女の周囲では、レオリオ・キルア・ゴンが心配そうに
覗き込んでいた。
「………?…」
「いきなり動くな。頭、打ってんだから」
体を起こしかけて、クラピカは後頭部の鈍痛に気づく。
「……何が…」
「覚えてないの?階段から落ちたんだよ。びっくりしちゃった」
「あんたらしくないドジだよね」
そこは広い階段の踊り場で、そんな所に寝ている自分は彼らが言う
ように、階段から転落したのだろうと納得する。
レオリオはクラピカの手首を取り、脈を計っていた。
「脈拍は正常っと。眩暈や吐き気は無いか?」
クラピカは怪訝な表情で彼を見ていたが、やがて小さな声で答える。
「……特には」
「軽い脳震盪だな。しばらく安静にしてろよ」
レオリオの言葉に、ゴンとキルアは安堵した。
しかし、抱き上げようとしたレオリオの手をクラピカは刎ねつける。
「何すんだよ、部屋に運んでやろうってのに」
「レディの体に気安く触れるな!」
・・・・・・
一同は耳を疑った。
よもやクラピカの口から『レディ』などという単語が出て来るとは。
普段はあれだけ女性を感じさせないというのに。
クラピカは不審そうに三人の顔を見回していたが、やがてゴンに
向かって口を開いた。
「……聞きたい事があるのだけど」
「何?」
改まった口調に、ゴンも自然と真顔に変わる。
「ここは何処?」
その言葉に、ゴンだけでなくキルアもレオリオも目を丸くした。
「……わかんないの?ヒノレトンホテルだよ。昨夜チェックインして
これから朝ごはん食べにレストラン行くとこだったじゃない」
「ホテル……」
見たところ壁も装飾も豪華な造りで、世界有数のホテルなのは
確かだろう。
「どうしたんだ?少し混乱してるのか?」
クラピカはレオリオの問いかけには答えず、更に続けた。
「君達は、誰?」
少年二人と男一人は固まる。
そして、コソコソと耳打ちし合った。
「……タチの悪い冗談、とかじゃ……ねえよな?」
「アイツにそんなギャグセンスあるかっての」
「まさか、クラピカ……頭を打った為に……」
最悪な予感と病名が三人の脳裏をよぎる。
レオリオは最年長者および医者予備軍として、極力冷静さを保ちつつ
クラピカに問うた。
「あー、コホン。なあ、念の為に自己紹介をしてもらえるか?」
「人に名前を尋ねる時は自分が先に名乗るのが礼儀でしょう」
間髪入れぬ切り返しは、間違いなくクラピカである。しかし、その
物言いに何か……どこか違和感を覚えたのは気のせいだろうか。
レオリオはひきつりつつも笑顔を作り、名を名乗る。
「オレはレオリオだ。こっちはゴン、隣はキルア。…これでいいか?」
その不自然な笑顔を怪しみつつも、クラピカは素直に返答した。
「私の名はクラピカ。ルクソ地方出身、11歳」
瞬間、その場の時間が停止する。
「………じゅう、いっ、さいぃ〜〜〜!?」
一声発して、三人は真っ白に石化してしまった。
「……記憶喪失ってのは、いろんなパターンがあるらしいけどよ……」
「記憶後退って言うんじゃねーの?」
「クラピカが年下になっちゃった…」
とりあえず部屋に戻ったものの、レオリオ・ゴン・キルアは頭を抱える。
「一気に五年分、かよ……」
当のクラピカは部屋に備え付けのドレッサーを眺めて黙考していた。
ゴン達は彼女に、自分達は仲間で友人でハンターだと説明したが、
当然ながらスンナリと信じてはもらえない。
もしや誘拐されたのかとクラピカは警戒したが、己の姿を目にすれば
『見知らぬ友人達』の言葉も、納得しないわけにはゆかなかった。
鏡に映るのは11歳の子供ではなく、16歳の少女なのだから。
「クラピカ……大丈夫?」
ゴンはボンヤリとしているクラピカを案じ、声をかける。
「……少し、ショックかな」
「無理ないよね…」
「なんでこんな少年みたいな姿なんだろう」
その言葉に、男性陣は脱力した。
「アンタ何にショック受けてんだよ」
キルアのツッコミももっともである。しかしクラピカは至極真剣だった。
「だって、成長すれば母様のような綺麗な女性になると思っていたのに。
どうして髪を切ってしまったのかな、あんなに長く伸ばしていたのに。
もったいない」
(!)
その時、レオリオは気がついた。
クルタ族が襲撃されたのは、クラピカが12歳の時。
ゆえに11歳のクラピカは、その事実を知らないのだと。
「……そっか。だから物腰とかが柔らかいんだな」
態度こそ毅然としているものの、どこか無邪気な表情や口調は、暗い
過去を持たぬゆえ。
呟くレオリオに、キルアも同意する。
「村を出た理由も、ハンターになった理由も、ソレだったんだっけ」
髪を切ったのも、おそらく戦闘に備えての事だろう。貴族的なまでに
良家の令嬢然としていた彼女が現在の道を選んだのは、蜘蛛による
襲撃と一族の滅亡があったからに他ならない。
元気づけるように話しかけるゴンに対するクラピカは、16歳の時よりも
明るく見えた。
「きっと、すぐに治るよ」
「心配してくれてありがとう。…でもこんな状態では、自分自身に責任が
持てない。だから、故郷に帰ろうと思う」
(!!)
その発言に、三人の心臓が跳ね上がる。
クラピカの言う故郷は、既に存在しないのに。
「……故郷って、クルタの」
「知っているのか!?」
思わずゴンが漏らした言葉をクラピカは聞き逃さず、驚きの顔で見た。
「おい、ゴン」
レオリオが制止するまでもなく、ゴンにも告げる気は無い。
そう示すように彼は一旦レオリオに向かって頷き、笑って言った。
「知ってるよ。友達だから。クラピカが教えてくれたんだよ」
「……そう、なんだ…」
一瞬身構えたクラピカだが、ゴンのまっすぐな瞳と笑顔を疑いはしない。
「そのくらい仲の良い友達なのか…じゃあ、尚更迷惑をかけるわけには」
「待ちなよ。その前に、ハンター協会の医者に診てもらったら?」
不意にキルアが口を挟む。
「帰るったって、こっからは遠いんだろ?協会に申請すれば明日にでも
往診に来てくれるぜ」
クラピカは暫し困惑していたが、意見を求めるようにゴンを見る。
「そうしなよ。こんな状態だし、あんまり一人で出歩かない方が良いよ」
「……そう…かな。じゃあ……そうしよう」
微笑を浮かべるクラピカに、ゴンも安堵したのか満面の笑顔を向けた。
「じゃあさ、朝ごはん食べに行こうよ。お腹すいたでしょ?」
そう言って、ゴンはクラピカの手を取り立ち上がる。
クラピカも抵抗せず、素直にゴンについて行った。
「……なんか、前より仲良くねーか?あいつら」
「歳が近いからだろ」
どこか釈然としない様相のレオリオに、キルアは端的に言い放つ。
「だったら、お前だって」
「オレが人好きされるタイプだと思うワケ?」
「……いいや」
年齢はさておき、ゴンには初対面の野生動物ですら懐くのだ。
それを思えば、見ず知らずの輪の中に放り込まれた11歳の少女が気を
許すのは当然かも知れない。
とりあえず、ゴンがいてくれて良かったとレオリオは息をついた。
「さっき、この階段踏み外したんだよ。気をつけてね」
階下のレストランに続く大きな螺旋階段を下りながら、ゴンはクラピカに
忠告する。
「いくら私でも、二度同じ失敗はしないよ」
ゴンに手を引かれたまま、クラピカは苦笑した。
「っと、おい!そっち見るんじゃねえっ…」
2〜3段降りた時、突然背後からレオリオが駆け出す。彼は壁の一部を
クラピカの視界から遮るように立ちはだかった。
「?何の真似?」
クラピカはそんな彼の姿に、訝しそうに目をまたたく。
レオリオの背後の壁には、一枚の絵が掛けられていた。
「グスタフ・クリムパンの絵か。テーマは女性と蜘蛛……綺麗な絵だな」
ヒョイと覗き込み、平然と絵画を眺めた後、レオリオに視線を向ける。
「変な人」
そう一瞥し、クラピカは階段を下りて行った。
しばし呆然としていたレオリオは、一気に脱力する。
「……そうだった。今のあいつは…」
本来のクラピカは、絵だろうと模型だろうと蜘蛛は大嫌いだったのに。
だが今は何とも無い。――― 蜘蛛を嫌いになった原因が『無い』から。
遅れて階段を下りながら、キルアは横目で絵を見る。
「もしかして、クラピカが階段踏み外した原因ってこの絵?」
「…ああ。今朝、新しく掛け替えられてたんだよ」
「『知らない』って、強いね」
キルアの何気ない一言は、妙に重くレオリオの胸に残った。
レストランで、一同は少し遅い朝食を摂る。
一流ホテルだけあって、ブランチメニューも豊富だった。
「こんな料理は初めてだ。どんな食材を使用しているんだろう」
出された料理を、クラピカは驚嘆と共に口に入れる。
その素直な感想や健啖ぶりは、実に不思議な光景だった。
「クラピカがこんなにメシを喜ぶとはなぁ…」
「いっつもすました顔で食ってたけど、ちゃんと美味そうに食えるんじゃん」
レオリオとキルアは小声で心境を呟き合う。
ゴンと並んで座ったクラピカは、実に嬉しそうに、そして美味しそうに
食べている。
短いつきあいだが、彼女が『食事を楽しむ』様子は初めて目にした。
「…ま、脳の中のトラブルだけで、体の健康に問題があるわけじゃねえ
からな。物を食う元気があるだけマシってこった」
そう言って、レオリオはクラピカの皿に手付かずで乗っている生魚の
マリネにフォークを伸ばす。
「何をする!?」
途端にクラピカが鋭い目で睨みつけた。
「……何って、お前、生魚嫌いだろ?」
クラピカは生臭系を好まず食べ残すので、それを貰うのはレオリオの常
だったのだ。
「確かにそうだが、人の皿に無断で手を出すなど、失礼きわまりない!」
不愉快を含んだ声音で言い放つクラピカに、レオリオは再度、彼女が
『知らない』事を思い出した。
「……悪ぃ」
レオリオは素直に謝り、フォークを引っ込める。
プイとそっぽを向くクラピカの横顔が、別人のように遠く感じられた。
二人の微妙な雰囲気を察し、ゴンは助け舟を出す。
「無断じゃないよ。いつも、クラピカが残したものはレオリオが食べて
くれてたんだから」
「いつも?…他人の食べ残しを?」
聞き返したクラピカの瞳が再度レオリオを見る。そこには、露骨に『下品』、
『浅ましい』という蔑みの感情が見てとれた。
さすがにゴンも気づくというもの。
「……余計なコト言っちゃったかな……」
助け舟のつもりだったが、逆にドロ舟である。
これ以上ヤブをつつくなというキルアの制止で、ゴンはフォローの機会を
逸してしまった。
※クラピカの年齢や食べ物の嗜好はマイ設定です。
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