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ゼビル州の丘陵地帯。この緑豊かな片田舎には、首都の喧騒も
遠く、届かない。
その村の一角に建つ一軒家のドアを、ポストマンが叩く。
「こんにちは、先生。手紙を届けに来ましたよ」
呼び声を聞きつけ、医師はペンを置いた。
手紙を渡しながら、ポストマンはちらりと家の奥へ視線を走らせる。
この村で唯一の医師は、家の一部屋を診療所として使っていた。
「今日は、患者さんはいないんですか」
「ああ、結構な事だ。いつもこうなら良いんだが」
「じゃあ、執筆の方が進んで良いですね」
「いやあ、エディターが厳しくてな」
苦笑と共に医師は言う。つられるように、ポストマンも笑った。
「お茶でもどうだ?そろそろ休憩しようと思ってたし」
「いいえ。お邪魔しちゃ悪いですから」
ポストマンは惜しみながらも辞退し、一礼して去ってゆく。
受け取った手紙の差出名を眺めながら、医師はリビングへ向かう。
「お茶が入りましたよ」
手にした懐中時計の蓋をパチンと閉じ、一人の婦人が声をかけた。
丸いティーテーブルの傍で、長いドレスの裾がフワリと揺れる。
「ああ、今行く」
医師――― レオリオは、明るい微笑みで応じた。
午後のティータイムが始まる。
レオリオは手紙の封も切らず、差出人の名前を眺めた。
「またハンゾー警部からラブレターが来たぜ。なんでこう毎回、
部外者に頼るかな、あいつは」
「Drレオリオ・ワトソンには、名推理の実績がありますから」
問うともなく言われた言葉に答えながら、対面の相手はカップを
口に運ぶ。
「何言ってんだよ」
レオリオはカップを置き、からかうような視線を向ける。
「今も昔も、助言してるのは名探偵クラピカ・ホームズじゃねえか」
「そんな事、警部たちは知らないのだよ」
ふいに、クラピカの口から以前の言葉使いが飛び出した。
話題のせいか、それとも好きな茶葉の香りに気が緩んだのだろうか。
気付いて笑うクラピカの背で、長く伸びた髪がさらさらと揺れる。
白いシルクのブラウスの胸元には、真紅の宝石を戴くネックレスが
輝いていた。
この優雅で美しい女性の性別を見間違う者など、もはや皆無。
「それに、クラピカ・ホームズはもうどこにもいない。推理も助言も、
お前にしか出来ないではないか」
「違いねえ。ミセス・ワトソンの内助の功は内緒だな」
二人は穏やかに笑い合う。室内に優しい空気が満ち溢れていた。
「そういえばレオリオ。あの回想録だが、指輪事件の結末は改変して
おくのだよ」
クラピカは、ふと真摯な口調に戻り、レオリオを現実に引き戻す。
「せっかく罪科を知る唯一の存在が消えたのに、自ら暴露してどうする。
牢に入りたいのか?」
「滅相もない。承知しましたよ、直しておきます」
厳しくも愛しい専属エディターの忠告に苦笑しつつ、レオリオは答える。
現在、彼は医療のかたわら 回想録を執筆していた。
書斎の机に山積みされた原稿、それは長い夢の跡。二人が辿った
数奇な愛の物語。
――― 『初めまして、ドクターレオリオ。私はクルタ公爵令嬢、
レディ・クラピカ・クルタと申します』―――
あの夜、橋の上から仕込杖を捨てたクラピカは、次の瞬間 別人の
ように淑やかな口調で名乗り、正式なレディの作法でお辞儀した。
突然の変貌に最初は戸惑ったレオリオも、すぐに理解する。
クラピカは、『探偵クラピカ・ホームズ』の存在を、この世から永遠に
抹消したのだ。
――― 『クルタ公爵令嬢』なら、レオリオの罪科など知りえない。
この秘密は、二人が永遠に背負って行くと決めた。
そうしてレディ・クラピカは、ドクター・レオリオの妻となったのである。
「お前にも、厄介なラブレターが来てるぜ」
レオリオはもう一通の手紙を取り出す。差出人はクルタ公爵、
クラピカの叔父だった。
「叔父上か。……いい加減あきらめてもらえないものかな。私は
もうクルタ家を継げないというのに」
受け取りながら、溜息をつく。
クラピカは、立ち居振る舞いや言葉使いに気を配り、出身を隠して
生活していた。理由は、貴族が庶民に降嫁したとあっては、家名に
関わるから。
まだそこまで許される時代ではなく、彼女の叔父も再三、戻って
爵位を継ぐよう説得を繰り返している。
「やっぱ血筋ってのが大事なんだろ、貴族サマってのはよ」
まるで他人事のように言うレオリオに、クラピカは呆れた様子で
手紙に目を走らせた。
「…どうしても私がダメなら、私の子を養子にして継がせると
書いてあるぞ」
「何ぃ!?」
レオリオは仰天し、思わず身を乗り出す。
「貴族の家では、よくある手段なのだよ」
「何のんきに言ってんだよ!そんなこと許せるわけが…」
「静かにしろ、レオリオ」
ピシャリと言われ、レオリオは言葉を飲み込んだ。そして互いに、
そーっと窓際へ目を向ける。
柔らかな陽射しを浴びる白いゆりかごが、微かに揺れた。
「……もう。起きてしまったではないか。お前のせいだぞ」
「悪ぃ」
クラピカはテーブルを立ち、ゆりかごに歩み寄る。幸い、赤ん坊は
うとうとと身をよじっただけで、再び眠りに落ちようとしている。
クラピカは赤児の顔を覗き込み、優しく告げた。
「心配せずとも、何処へもやらないのだよ」
愛し子をあやす姿は、さながら聖母の如き光景。
眩しそうに眺めながら、レオリオは充足感に満たされる。
怪盗と探偵の許されざる恋は、誰知る事もなく闇の彼方に消えた。
成就させたのは、医師と公爵令嬢。
二人は過去を捨て、真実を受け入れ、罪も、秘密も、すべてを
分かち合って、共に生きると決めたのだ。
何より大切で必要なのは、互いへの愛だから。
そうして新たな人生を築き、幸福を手に入れた。
もう二度と、道を誤る事は無い。
「……さて、書き上げてしまうかな」
レオリオは再びペンを取る。
回想録・最終章の結びを、HAPPY-ENDと記す為に。
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