古き良き時代。
街角のガス灯が霧にけぶる都市の一角、ハンター街221Bの
とある下宿に、稀代の名探偵が住んでいた。
この文書は、その同居人でありパートナーでもあった医師、
レオリオ・J・H・ワトソンが後に記した回想録の抜粋である。


              


              〜空き部屋事件〜


レオリオは怒っていた。
軍医だった彼は従事先のドーレで負傷し、ようやく帰国した
ばかりで、金銭にも住居にも窮していたところ、とあるパブで
偶然再会した知人カイト・スタンフォードに、ハンター街221Bの
下宿を紹介されたのである。
大家はセンリツ・ハドソン未亡人という優しく温厚な女性で、
建物の状態も良好、三階建てで部屋数も多く、周辺の環境も
良いし、何より日々の食事付きという点が気に入り、レオリオは
即座に入居を決めた。
ところが荷物(といってもトランク一個だけであるが)を運び込んだ
時、センリツ夫人は思わぬ一言を発したのである。
「先に入居されたルームメイトの方は、いつ頃お帰りかしら?」
「……ルームメイトォ!?」
レオリオは初耳だった。しかしセンリツ夫人が言うには、この
下宿は広さと家賃との兼ね合いもあって、二人一組で入居する
システムになっているとの事。
カイトは、レオリオとは別にもう一人にも声をかけたのだろう。
しかし当事者たちには一言も無い。レオリオは文句を言うべく
カイトの元へ向かったが、彼は急な仕事で既に旅立った後だった。
そこでやむなく、もう一人の入居者と話をつけるべく、その行き先へ
向かったのである。



セント・ザバン病院。
目的の人物は化学実験室の中で何やら難しそうな本を読んでいた。
案内をしてくれた紳士に名を呼ばれ、振り向いた相手と、レオリオの
視線が合う。
『同居人』は、見たところ16歳か17歳、まだ子供の域を脱したばかりの、
しかし人形のように端正な顔立ちで、上質の白いスーツに深い青色の
インパネスコートを羽織り、肩にかかる金色の髪は薄暗い室内でも
よく映えた。
そして質素な衣服をまとっていても、漂う高貴さは隠されない。優雅な
身のこなしや態度から、貴族階級出身である事は明白だった。
上流のマダムたちがいかにもチヤホヤしそうな、凛とした美少年。
それが第一印象。
「…オレはレオリオ・J・H・ワトソンという者だ」
「君はドーレに行っていたのだな」
一応、礼儀として挨拶をした途端言い当てられた真実に、レオリオは
目を丸くする。
「なんでそんな事知ってんだ!? カイトに聞いたのか?」
瞬間、相手は眉をひそめた。レオリオの紳士らしからぬ言葉使いに
不快感を示したらしい。
「カイトと言うのは、あの下宿を紹介した男だな。彼とはその日が
初対面で、以降会っていない。君の話など聞いた事もないのだよ」
元々貴族とは相性の良くないレオリオだが、どこか威圧するような
居丈高な物言いにムッとした。
「私の名はクラピカ。君がドーレからの帰還兵である事など一目で
わかる」
そう言ってクラピカは言葉を続ける。
「まず、住居を探している男ありき。そして一つ、君はこの国の気候
とは不似合いに日焼けしているし、長旅疲れの痕跡が見える。二つ、
腕の動きが少し不自然だから負傷していたと察する。三つ、現在この
国内において以上のような状況にあるのは、目下戦争中のドーレに
従軍していた以外の理由は有り得ない」
実に論理的で鮮やかな推理に、レオリオは唖然とした。
しかし彼はすぐに立ち直り、余裕の笑みを作って言い返す。
「残念だが一つ間違いがあるぜ。オレは帰還『兵』じゃなくて軍医だ」
ツンと横を向いていたクラピカは、彼の言葉に目を見開いた。
「…軍医?医者なのか?君が?」
「おう。文句あるか」
あからさまに意外そうなクラピカの声は、レオリオのプライドを
チクチクとつつく。
確かにレオリオは、医師よりも軍人に相応しい長身と体格だし、
身につけているコートもスーツも長旅仕様に実用性を追求した物
だから、洗練された都会の紳士には見え難い。
丸縁の眼鏡とステッキも、体裁を繕うだけの代物であろう。
しばし彼を凝視していたクラピカは、再びそっぽを向く。
「世の中には時々、私の理解の範疇を越えた実に不可解な現象が
起きるものなのだな」
「…んだと、このガキ!」
まさに一触即発。そのままケンカになってもおかしくない雰囲気
だったが、ふいに聞こえた失笑に阻まれる。
彼らの背後で、レオリオを実験室へ案内して来た正真正銘の紳士が
クスクスと笑っていた。
上品な巻きヒゲが楽しそうに揺れている。
「いや失礼。それにしても驚きました。かの名探偵も推理をはずす
事があるのですね」
「サトツ教授。時には常識外のデータも存在するという証明なのだよ」
「名探偵?」
クラピカの失礼な発言より、レオリオは紳士の一言が気にかかって
問い返す。
「Drは御存知ないのですか?こちらは警視庁のお歴々も頭を下げて
頼るという当代きっての名探偵、クラピカ・クルタ・ホームズ嬢ですよ」
「そういえば、なんかスゴ腕の探偵がいるって噂は…………え?」
瞬間、滑らかに流れた紳士の言葉の一部が、レオリオの頭の中で
ひっかかった。

……今、なんて言った?
名探偵。こんなガキが?
いや、そうじゃなくて。
オレの聞き間違いでなきゃあ、確か、『嬢
(レディ)』……

「…レディい!? 女なのか!? コレがぁ!?」
仰天するレオリオに、指差されて『コレ』呼ばわりされたクラピカは
一瞬で不機嫌度MAXになる。
「なんという無礼な男だ。Drなどといっても、品性までは取得して
いないとみえる」
「そんな格好してりゃ誰だって間違うだろ。第一、女がなんで探偵
なんかやってんだよ!!」
レオリオの言葉は暴言に聞こえるが、当時としては当然の意見だ。
女性の社会進出がめざましい時代ではあるものの、ファッションは
裾の長いドレスが主流だし、探偵という職業自体、男性ですら珍しい。
しかしクラピカは即座に反論する。
「衣服に惑わされて性別を見誤ったのは貴様の判断力不足なのだよ!
第一、女王陛下が統治するこの先進国で、女性を蔑視するなどと
不敬罪にも等しいのだよ!!」
無論、彼女の言葉も一理ある。

互いにプライドを刺激され、この後、大ゲンカをする事 小一時間。


そして、そもそもの発端である部屋の所有権は、意地もあってか
二人は共に譲らず、センリツ夫人の提案でレオリオは3階に、
クラピカは2階に、不本意ながら同居する羽目になってしまった。


「貴様のような野卑で下品な男が一つ屋根の下に住むなどゾッと
するが、屋根裏のネズミと思って耐えよう。忠告しておくが、あらぬ
狼藉に及ぼうなどと妙な考えを起こすなよ。ヌメーレ河に浮かびたく
なければな!」
クラピカは剣術と棒術、そして柔術の達人である事を前置きしてから
そう述べた。
対して、レオリオも黙ってはいない。
「誰がするか、お前みたいなヤセガキ。オレの方こそ橋の下で寝る事
思えば、口うるせぇネコの一匹くらい見逃してやるぜ!」
二人は視線の間に火花を散らしつつ、二階と三階に別れた。


かくして、男装の美少女名探偵クラピカと、助手の医師レオリオの
コンビが誕生したのである。