「緋色のまなざし」
            〜前編〜



その日、クラピカは一人で街を歩いていた。
友人たちと外出するのも楽しいが、たまには一人でのんびりと
古本屋を回ったり、骨董屋を巡ったりしたい。
レオリオもバイトで忙しく、今日は同行していなかった。
目当ての店は、若者たちで溢れた表通りを少し離れた路地にある。
既に何度も足を運んでおり、記憶のままにクラピカは歩いてゆく。
だが店に到着する前に、彼女は立ち止まった。

「……離してよっ」
一人の少女が、人相の悪い男に抗っている。
掴まれた腕をふりほどこうと、必死に暴れながら。
「イヤだったらっ」
男は聞く耳を持たず、傍に駐車している黒塗りの高級車へ少女を
連れ込もうとしているらしい。
通行人はまばらだが、皆 関わりを持ちたくないとばかりに無視
している。
「やめて、離して、
――― 誰か、たーすーけーてー!」
クラピカは方向転換し、少女を掴んでいる男に向かって言った。
「その手を離せ」
不意に現れた制止者に、男は怪訝な目を向ける。
――― 関係ないだろう。向こうへ行け」
「そうはゆかない。その娘は嫌がっているではないか」
「お姉様、助けて!」
颯爽と登場した正義の味方に、少女は嬉々として助けを求めた。
クラピカは男の手から少女を奪うように引き寄せる。
「さ、早く行け」
「こ、こらっ。ダメです、逃がすわけには
―――
男は少女を捕まえるべく手を伸ばす。
だが一瞬早く、クラピカは男の腕を捻り上げた。
「い、いだだだだっ」
「何をしている!」
黒塗り車の中で事態を静観していた中年紳士が降りて来る。
クラピカは咄嗟に、押さえていた男を紳士に向けて突き飛ばした。
「うわっ…」
「わあっ」
紳士は男を受けとめられず下敷きになり、二人は重なるように
路上へ倒れる。
その様子を見て、走り去りかけていた少女が声を上げた。
――― パパッ!」
――― え?」
彼女が呼んだ呼称に、クラピカは驚き振り返る。
「ダ、ダルツォルネ。早くネオンを」
「は、はい。お嬢様、お父上の言う事を聞いて下さいっ」

 ……『お嬢様』。
 ……『お父上』。

クラピカは、ようやく激しい誤解をしていた事実に気付いた。





――― 申し訳ありませんでした」
一同は紳士
――― ライト・ノストラードの事務所へ来ていた。
そこでクラピカは改めて謝罪する。同じく専務のダルツォルネにも。
「……いや、まあ、元を正せばネオンの我侭が発端だ。気にしなくて
かまわんよ」
礼儀正しく頭を下げるクラピカに、ノストラード社長は寛容な態度を
見せる。
確かに彼の言う通り、ネオンの『助けて』という一言が無ければ、
クラピカも実力行使までは及ばなかったと思われた。
「あたしは悪くないもん。パパが急に呼びつけるのが悪いのよ。
今日は前から楽しみにしてたライブの日だったのにぃ」
事務所のソファで拗ねたように寝転がり、ネオンは文句をこぼす。
「お言葉ですがお嬢様。仮にもプロのモデルなら、オーディションを
優先して下さい。まして、今回はあの大手化粧品会社の」
「あたしはライブの方が良ーい!」
ネオンはダルツォルネの言葉を遮り、じたばたと手足をバタつかせる。
彼女の顔に見覚えがあるような気がしていたクラピカは、その会話を
聞いて思い出した。少女向けファッション雑誌のモデルである。
父親のノストラードが経営するモデルクラブの看板で、グラビアでは
愛くるしく映っていたが、実体はこの有様。
クラピカは呆れるが、勘違いをして関わってしまった己の愚かさも
大差無い。
「せめてクライアントに顔見せだけでも」
「やだやだ、早く会場行って、入り待ちしたいのーっ」
宥めるダルツォルネ、抵抗するネオン、頭をかかえるノストラード。
この珍喜劇からいかにして脱出しようかと、クラピカは言葉を捜す。
その時、事務所のドアにノックが響いた。

――― 失礼します。ワンダフルスワン(WS)社の者ですが」
現れた人物を、ダルツォルネ達は起立して迎え入れる。
名乗った社名は国内最大手の化粧品会社。おそらくノストラードは、
有名会社の広告に娘を起用させる事で、経営するモデルクラブの
知名度を上げようとしているのだろう。
クラピカは、このどさくさにまぎれて立ち去ろうと考えた。
「お取り込みのようなので、私はこれで失礼させていただきます。
お詫びは後日、改めて
―――
「待ちたまえ」
ノストラードに断りを入れ、席を立つクラピカを WS社の社員らしき
男が呼びとめる。
彼はクラピカの正面に立って、まじまじと顔を見た。そのぶしつけな
視線に、つい瞳がきつくなる。
「……何か?」
――― 素晴らしい」
その発言に、一同は不思議そうに二人を見た。
「私も長らく広報を担当しているが、ここまでイメージ通りのモデル
には初めて会った。ノストラード社長、ぜひ、この娘で頼みます」
「………はぁ?」
一瞬、その場の時間が停止した。
しかしそれはクラピカだけで、WS社社員はいそいそと契約書を
取り出し、ギャラ・撮影日等の交渉を始める。
最初は唖然としていたノストラードも、すぐに調子を合わせて
「彼女は入ったばかりの新人ですが、将来有望でしてねぇ…」
などと、適当な事を言いながら応じ始めた。
「グラビアだけでなく街頭ポスターや電車の中吊り広告、出来に
よってはテレビCMも彼女で行けますよ。私から上に推薦しましょう」
「それはありがたい。我がクラブからスターが誕生するとは光栄だ」
「やったじゃん、お姉様。あ、あたしもうライブ行っても良いよね?
ダルツォルネ、会場まで送って」
「わかりました、お嬢様。では社長、後はお任せします」
事務所を出て行くネオン達の姿に、クラピカは我に返る。
「ちょっ……ちょっと待て!私はモデルなど
―――
「クラピカ君、良い仕事を取ってくれて感謝するよ。君と出会えて
実に良かった」
わざとらしくも丁寧なノストラードの言葉が、クラピカに重く
のしかかった。
初対面で暴力をふるってしまった彼女には、無下に断る事など
できない。
というか、それを楯に引き受けさせようとしているのは明白
なのだが。

「では、撮影の日を楽しみにしていますよ」
「こちらこそ、今後ともよろしくお願いします」
WS社とノストラード社長は固い握手を交わし、満面の笑顔で
契約成立を祝った。
当事者たるクラピカは、一言も発言権が与えられないまま 事態の
推移を傍観したのみ。
「うちへの入会手続きと必要書類はこっちで作成しておく。来月の
一日に撮影だから、それまでに保護者の承諾と印鑑を持って来て
くれ。あと、撮影まで体調はキープしておくように。モデルの基本だ」
ノストラードの上機嫌な言葉は、とどめでしか無かった。





「…………と、言うわけで。モデルをする羽目になってしまった
のだよ……」
クラピカは一人歩きを楽しむ事もできずに帰宅し、レオリオに経緯を
説明する。
困惑と動揺にうなだれる彼女に、レオリオは当初こそ驚いたものの、
やがてニマニマと笑いを浮かべ始めた。
「良いんじゃねぇの?やってみれば」
彼の無責任な言いように、クラピカは憤慨する。
「アヤしい事務所なら冗談じゃねーけど、モデルクラブもWS社も
有名どころだし、大丈夫だろ」
「それはそうだが……」
「プロのメイクと衣装で着飾って、ギャラまでもらえるんなら文句
ねーじゃん」
「私は、別に…」
「オレも見てみたいぜ。すっげー楽しみ」
「…………」
止めてくれないレオリオに、クラピカは肩を落とす。
婚約者が反対したから、と理由をつければ断れるかも知れないと
思っていたのに。
「何渋ってんだ?フツーは自慢できる事だぞ、お前の顔が有名誌の
グラビア飾るなんて」
「……それが」
力の無い声がボソリと呟く。
「え?」
「……目立ちたく無いのだよ」
「なんで?叔父さんに怒られるか?」
レオリオの問いかけに、クラピカはフルフルと頭を振って否定した。
そして、消え入るような声で答える。
「……不安ではないか…… どこで誰が見るかも知れない雑誌に
顔が載るなど……」
(!)
クラピカの言う『誰』が、何者を指しているのか、レオリオには
ピンときた。
彼にとっても不快な顔を思い出す。クラピカがこの世で最も憎み、
存在を忘れたがっている男。今は海外在住のはずだが、グラビア
などで世に出れば、どんな経緯で彼の目に触れるかわからない。
二度と再び、彼に関わられたくないのだ。
――― クラピカ」
単純に喜んでいた自分を反省し、レオリオはクラピカの肩を抱く。
「お前がイヤなら、我慢してまで引き受ける必要は無ぇよ」
「……レオリオ」
クラピカの瞳がレオリオを映す。
彼は先刻までとは違う、芯から優しい笑顔で笑った。
「断ろうぜ。オレも一緒に行ってやるから」
「………ああ」
クラピカも微笑し、レオリオの胸に頭を寄せる。

―――
この静かで穏やかな幸福を失いたくない。
ただ、それだけだった。




―――
のだが。

「ご心配なく。メイクと衣装で別人のように変わりますから」
翌日、断る為にモデルクラブを訪れた二人に、コーディネイターは
あっさりと言い切った。
いろいろ事情があって、顔を晒したくないのだと説明しても、まるで
意に介さない。
「ウィッグも使いますし、テーマカラーに合わせてカラーコンタクトも
使用する予定です。見た目の年齢だけでも、ぐっと上がるはず
ですよ」
「いや、だけど」
「クライアントは貴方の持つ雰囲気を必要としているんですから、
降板なんて困ります」
「でも」
「既にWS社では決定事項として上に伝わっています。モデル側の
都合だけで断るなんて、もはや不可能なんです」
「…………」



結局、破るはずだった契約書には、承認の印鑑を押してしまった。
話を聞く内、クラピカの危惧が多少は薄れたので レオリオも安心
してしまったのかも知れない。
「……すまねえな、クラピカ」
「……いや。元はと言えば、私が関わってしまったのが原因だ」
サンプルとして渡されたWS社製の高級メイクアップセットを前に、
クラピカは深い溜息をつく。
テーマカラーは「緋」。
キャッチコピーは「緋色のまなざし」。
そのコンセプト通り、シャドーもチークも口紅も、緋の同系色。
他にもカラフルなパレット、クリーム、ファンデーションの類が、何に
使うのかわからないメイク道具と共に、所狭しと並んでいる。
既に化粧品というより、絵画の道具と言った方が近い。
レオリオはそれらを眺めながら、クラピカに申し訳ないと思いつつ、
少しだけ期待してしまっていた。