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『貧乏人がどうなろうと知ったことか。手術して欲しければ
金を持って来い』
そう言って、唯一 親友の命を救えたはずの医者は、無情に
扉を閉ざした。
仮にも人命を預かる医師の口から発せられた冷淡な言葉を
レオリオは今も忘れられない。
それは彼の心に深い悲しみと無力感と、激しい憎悪を残した。
「ダチの代わりにオレが死ねたらと思った。一緒に死んで
やりたいとも思った。だけど一番強く思ったのは、あの医者が
死んじまえばいいって考えだ」
感情を押し殺した口調でレオリオは続ける。
親友の葬儀の後からレオリオは、消えない怒りと悲しみを
まぎらわす為か、自棄のように荒れた生活を送り始めた。
昼夜を問わず酒に溺れ、相手かまわずケンカを売り、果ては
親友の墓標の前で酔いつぶれる。
レオリオの心境は周囲の人間も理解していたので、あえて
止めず、彼の好きにさせていた。
そんなある日の夕暮れ、裏通りを歩いていたレオリオは、路地の
向こうに停車している高級車に気付いた。
見覚えがある、いや忘れはしない。それは親友を見殺しにした
医者の愛車だった。
レオリオの頭が、一気に熱くなる。
そこは、この辺りでは割と高価なマンションだが、医者の自宅
ではない。
不審に思う間も無く、医者本人が姿を現した。そして彼の隣には、
若く美しい女が腕を組んで歩いている。
壮年を越えた年齢の医者にそぐわない女は、明らかに愛人だ。
おそらく逢引を終えたぱかりなのだろう。女は医者が車のドアを
開けると、別れを惜しむように体を寄せた。
やにさがった医者は、ねだられるまま抱擁と口接けを始める。
レオリオの胸の奥で、怒りと化した悲しみが燃えた。
親友はロクに恋もできず世を去ったというのに。
「殴り倒してやりたかった。刃物でも持ってりゃ確実に刺してた
だろうな。でも生憎丸腰だったから、せめて吸ってたタバコを
投げつけてやったのさ」
火のついたままのタバコは目標をそれて、車の後部座席に
飛び込んだ。
医者も愛人も気付かなかったらしく、二人は笑顔で手を振り合い
そのまま発車してゆく。
女は再びマンションの中へ消え、残るのは、腹立ちを抱えた
レオリオのみ。
彼は無力な己が歯がゆく、医者にも、愛人の女にも、世の中の
すべてに憤りながら、その場を離れた。
酒でも飲まないと気が済まず、レオリオは勝手知ったる酒場から
酒瓶を数本くすね、いつものように親友の墓標の前で酔いつぶれた。
「─── 翌朝、顔馴染みの牧師がオレを起こしに来て、そして
教えてくれたんだ。あの医者の車が、走行中に突然発火して、
炎上しながら橋の欄干に衝突したってな」
少し小さくなった雨の音が、レオリオの低音を響かせる。
クラピカは硬直したように微動だにせず、彼の語る昔話を聞いていた。
「車は爆発、医者は焼死。原因はシートに落ちたタバコの火の延焼。
本人も喫煙家だったから、あいつ自身の不始末だとみなされて、
オレを疑う奴なんか一人もいなかったぜ」
まるで他人事のように淡々と語るレオリオの口調は、逆に信憑性が
ある。
「でもオレは知ってる。オレの投げたタバコが、あいつの車に火を
つけたんだ。オレがあいつを殺したのさ」
「……嘘だ」
うつむいたまま、クラピカはようやく口を開く。
「お前は……タバコなど吸わないではないか…」
「その事があってから、やめたんだよ」
即答するレオリオに、クラピカはもう、否定する根拠を見つけられない。
「わかったか?お前がオレを汚すんじゃねえ。まっさらだったお前を、
オレが穢したんだよ。半年も前にな」
「…………」
「オレは自分のした事を隠して、お前を汚した悪党だ。人殺しで、
卑怯者の偽善者なんだぜ」
「…………」
「─── 軽蔑するか?」
「……いいや」
小さな、しかし はっきりとした声でクラピカは答えた。
ふわりと金の髪が揺れ、顔が正面を向く。
「…人殺しの偽善者なら、私も同じだ」
その瞳から緋の色は去り、元の深い琥珀色に戻っていた。
安堵したのか、レオリオの表情も ふと緩む。
彼はそのまま手を伸ばし、クラピカの髪に触れた。
今度はクラピカも拒むことなく、素直に引き寄せられる。
広い背中に腕を回しながら、クラピカは心の中で呟く。
(良かった─── ……)
自分を汚したのが蜘蛛の血ではなく、彼で良かった。
レオリオを穢れだとは思わないけれど、本人がそう言うのなら、
それでいい。
血にまみれ、命を奪い、闇に染まってゆく自分はもう、レオリオに
愛される資格を失ったと思っていた。
だけど彼は自分と対等な場所にいる。不謹慎だとわかっていても、
嬉しく思わずにはいられなかった。
レオリオが犯した罪は誰も知らない。
だけど本人だけは知っている。世間が忘れ去っても、彼は決して
忘れまい。
だからこそ医者を志したのだろう。救える命を救う為に。
そしておそらく、奪った命に対する贖罪の為に。
自分にはとてもできないとクラピカは思った。
レオリオの過去の罪を知って、安堵するような人間なのだから。
「…私は……きっと地獄に堕ちる…」
ふと聞こえた言葉に、レオリオは閉じていた目を開ける。
「オレもだ」
そう言って、胸の中のクラピカを一旦離して視線を合わせた。
「……オレにはお前を止めるとか、まして救うなんて立派なマネは
できねぇけど…」
そして、改めて抱きしめる。
「堕ちるなら一緒だ。地獄の果てまでつきあうぜ」
「─── ああ」
目頭が熱くなる自覚に、クラピカは彼の胸へ顔を埋ずめる。
無言で抱き合う二人の周囲を、遠ざかってゆく雨音が包んでいた。
消えない罪。
だけど誰にも許しを乞わない。
それを背負って生きてゆくと決めたから。
─── 血塗られた緋の眼の傍らで。
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