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晴天の公園から雷雨の空港に至る、長い長い9月4日が終わった。
旅団に囚われていたゴン・キルアと合流したレオリオ、クラピカ、
センリツの5人は空港に戻り、飛行船を降りる。
その後は旅団側の追跡を警戒して、前もってゼパイルに用意を
依頼していた隠れ処に身を潜めることにした。
ボス(ネオン)の様子を見に戻るセンリツと別れ、一行は都心から
離れた町の一角、老朽化が進んで住人の去ったアパートの中で
休息を取る。
夕方から降り始めた雨はまだ続いており、冷たく規則的な水音が
ひっきりなしにコンクリートの天井を打っていた。
ザ─── ザ─── ザ─── ……
(………?)
仮眠を取っていたレオリオは、ふと目を開ける。
すぐ近くから水の音が聞こえた。
既に廃屋に近い建物だし、雨漏りでもしたのかと身を起こす。
ジャー ジャー ジャー
けれど耳を澄ましてみると、それは雨音とは違っていた。
屋内から、雨よりも短い間隔で流れ、何かに当たって微妙に
音を変えている。
廊下の奥に、昨今では珍しい共用の流し場があった事を思い出し、
レオリオは音源を確認しに部屋を出た。
「!?」
瞬間、ギクリと心臓が鳴る。流し場の前に、誰かが立っていた。
まるで幽霊のように気配を感じさせず、蛇口を開きっぱなしに
して、手を洗っている。
「……クラピカ?」
暗がりでも背格好で見当がつき、レオリオは声をかける。
クラピカは長時間の緊張と念使用に疲れ果てており、早々に
寝んだはず。その休息を妨げないよう、ゴンもキルアもレオリオも
別室で仮眠する事にしたのに、いつのまに起き出していたのか。
しかしクラピカは名を呼ばれても、振り向くどころか返事もしない。
「何してるんだ?お前」
レオリオはクラピカに歩み寄り、顔を覗き込む。
「!?」
そしてギョッとした。
クラピカの瞳は、夜目にも鮮やかな緋色をしていたのだ。
しかし本人はレオリオの存在に気付く様子も無く、手元を凝視
したまま、一心に手を洗い続けている。
まるで何かに取りつかれ操られているかのように。
その時、稲光が窓から射して二人を照らした。
「……おい!何やってんだ!?」
レオリオは驚いてクラピカの手を掴み、水から離す。
その時点で、クラピカはようやくレオリオの存在を認識した。
「………レオリオ?」
まだどこかボンヤリとした口調、そして緋の眼のままだが、ようやく
自分を見た事でレオリオは一応安堵する。
「何を……している?」
「それはオレのセリフだぜ。─── この手は何だよ」
そう言って持ち上げたクラピカの手は、摩擦で赤くなり、幾筋もの
ひっかき跡がついていた。
おそらく爪を立てて洗っていたのだろう。
「これは……」
「もしかして無意識か?」
「…………」
レオリオの指摘にクラピカは口ごもった。
別室へ移動し、レオリオはクラピカの手に薬を塗る。
クラピカは正気だが、眼の色は元に戻らない。
今日一日だけで実に様々な事態が起こり、クラピカの心を
乱したから、それらの感情を整理できていないのかも知れない。
レオリオはそう考え、問いかける。
「まだ気が高ぶってんのか?」
「…いや…そうでもない」
視線を落としながらクラピカは答えた。
「眠れなかったのか?」
「…………」
「…悪い夢でも見たか?」
「…………」
無言はそのまま肯定の意味。無理もない、とレオリオは思う。
クラピカは身も心もボロボロで、静寂が訪れた今でも苦しんで
いるのだ。元に戻らない緋の眼が、その証。
あまりにも痛々しくて、見ていられない。レオリオは何も言わず、
クラピカを抱き寄せた。
「─── !? 何をする!!」
そのまま床に倒し、服へ手をかけるレオリオに、クラピカは驚いて
抵抗する。
「眠れねぇんだろ?─── 眠れるようにしてやるよ」
「!!」
彼の意図に気付き、クラピカは更に激しく抵抗を始めた。
今が初めてという仲ではないが、こんな時にそんな気分になど
なれるわけがない。
─── まして……
「イヤだ、離せ!」
クラピカの抗議をレオリオは無視した。純粋な腕力では彼の方が
強く、たやすく押さえ込まれてしまう。
「レオリオ、やめろ!!」
「暴れんなよ。そんな眼ェして、眠れねーほど苦しんでるくせに」
クラピカの耳元で低い声がささやく。
「オレの前でまで強がるな」
なかば強引な行為は、彼の優しさと愛情。わかっているけれど、
クラピカは受け入れられない。
はだけた服の隙間から、直接 肌に触れられた。
「─── ダメだ、私にさわるな!!」
反射的にクラピカのオーラが高まる。
「お前が、汚れる……!!」
次の瞬間、レオリオは深紅の念に跳ね飛ばされていた。
「……今、何て言った?」
身を起こしながら、レオリオは問う。
クラピカは乱された服を押さえ、彼に背を向けた。
咄嗟にとはいえ、本音が飛び出してしまったから。
─── 『私にさわるな、お前が汚れる』───
その言葉の意味を悟ると同時に、レオリオは、クラピカが先刻
夢遊状態のまま手の洗浄を繰り返していた理由も理解した。
──── クラピカは、蜘蛛の血を、洗い流そうとしていたのだ。
レオリオはしばし絶句する。
幻影旅団の一人を倒し、旅団長と壮絶な死闘─── 精神的な
意味でだが─── を展開したクラピカは、その戦いを、返り血を、
掟の刃を刺した行為を、穢れと思い込んでいるのか。
ある意味、クラピカらしい思考ではあるが、レオリオは苦笑し、
あきれたように溜息をついた。
「─── 蜘蛛を殺ったから、自分は汚れたとか思ってるのか?
お前、そんなこと気にしてたのかよ」
それまでの深刻な雰囲気を一蹴するような口調がクラピカの
背に降りかかる。
「て言うか、お前、オレをそんなにお綺麗な人間だと思って
いたのか?そっちの方が意外だぜ」
レオリオはそう言うが、クラピカは彼の人格を認めている。
軽薄な言葉や態度とは裏腹に、まっすぐな気性と優しい心の
持ち主だと。
─── だから好きになったのだ。
レオリオは胡座を組んで座り直す。
「過大評価してくれたのは嬉しいけどな。オレは、お前が想像
してるほど清らかな男じゃねえよ」
「…………」
「お前が汚れてるってんなら、オレも同じだ。 …いや、黙ってた分、
オレの方が卑怯だな」
自嘲するような含み笑いが意味あり気に漏れた。
「教えてやろうか。オレも、人を殺した事があるぜ」
「!?」
予想だにしない言葉に、クラピカは思わず降り返る。
薄闇の中、こちらを見ているレオリオと視線が合った
「……何を、バカな。偽証は……」
「マジ」
レオリオは端的に肯定する。言われるまでもなく、真実だと
クラピカも察していた。
言葉のやりとりで真偽を見ぬけないほど未熟ではないし、何より
レオリオは生命に関わる事柄では、決して嘘をつかないから。
「前に言ったろ?病気で死んだダチの話。そん時、金が無い
からって看てくれなかった医者─── 」
レオリオは一旦言葉を切った。
「そいつを、殺した」
優しく暖かいはずのレオリオの微笑が、ひどく冷たく見えた。
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