「北風と太陽」 |
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日暮れと共に気温は一気に降下する。 凍えるような冬の夜、クラピカは家路を急いていた。 石畳の路地は足音さえ冷たい響きで、行きかう人の姿も無い。 寒風に背を押されるように、白い息を弾ませながら歩を速める。 仲間の緋の眼探しをライフワークとするクラピカは、長年 定住の 場を持たず各地を点々としていたが、しばらく前から小さな街に 落ち着いていた。 住んでいるのは賃貸のマンションで、繁華街から離れた静かな 住宅地の一角にあり、特に豪華でも無ければ利便性に富んで いるというわけでもない。 ただ目立たず、周囲に不審がられず、そして奇襲される確率が 低いようにと選んだ物件だった。 まもなく建物の玄関に到着し、暗証番号で扉を開けて、ロビーを 通過し、エレベーターに乗り込む。 屋内は少しはマシとはいえ、気温の低さに身震いをする。 今夜は氷点下かも知れない。いっそ雪でも降れば、視覚的には まだ華やかというものだ。 内心で呟きながら廊下を進み、クラピカは自室に着く。 金属製のドアノブは氷のようだった。 暖房をつけても、室内が暖まるまでコートを脱げまい。 ――― いっそ、このままベッドにもぐってしまおうか。 などと嘆息しながら、鍵を開ける。 「……!?」 無人の部屋は暗く冷え込んでいるはずなのに、予想と異なり、 クラピカは淡い間接照明と暖かな空気に出迎えられた。 「よう、お帰り。遅かったな」 「レオリオ…!」 警戒するより先に、かけられた声に目を丸くする。 部屋の奥から現れたのは、遠距離恋愛中の恋人。 「会いたかったぜv」 抱きつこうとする腕をあえて避け、クラピカは平静を装った。 「どうしたのだ。いつ来た」 「夕方だよ。卒業決まったから時間できたしな。携帯が繋がら なかったんで、勝手に待ってたぜ」 「…そうか。今日は一日、地下で調べ物をしていたからな」 ここで素直に喜んだら調子に乗ると、長いつきあいで知っている。 クラピカは更に追及を続けた。 「ここの玄関の暗証番号は定期的に変更されるのだよ。いつ 新しいナンバーを知った?」 「警備員に『フィアンセです』つって開けてもらった。証拠に オレたちの2ショット写真と、ついでにハンター証も見せたぜ」 ――― おそらく、効力を発揮したのは後者だろう。 クラピカはこめかみを押さえながら推察する。 このマンションのセキュリティには信頼を置いていたのだが、 少し考え直さなくては。 「部屋には鍵をかけていたはずだが」 「ハンターに不可能は無ぇの♪」 悪びれもせずに指先を曲げるレオリオに、クラピカの目つきは 自然と剣呑になってしまう。 彼が幼年時に会得した良からぬ技術の事なら知っていたが、 どうやらデジタルにまで進出したと思われる。 「ま、細かい事は後にして入れよ。何か食うか?レオリオ様特製の パスタ作っといたぞ。それとも先に風呂入るか?外、寒かっただろ。 あ、それともやっぱりオレ〜?」 「食事にしよう。私は空腹だ」 お約束なのか素なのか不明なセリフと共ににじり寄るレオリオを 一刀両断し、クラピカはダイニングへ向かった。 「お前また痩せてねえ?ちゃんとメシ食ってるか?」 クラピカが遅い夕食を摂る間、レオリオは夜食のクラッカーを つまみながら問いかける。 「不規則だが、一日三度は必ず摂食している」 「回数じゃなくて、何を食ってるかが問題だっつの。栄養とか バランスとか日々の体調とか、全然考慮に入れてねえだろ。 サプリメントでごまかしてたら、いつかツケが来るぞ」 ある意味、予想通りの返答にレオリオはクラピカをたしなめた。 他の事ならともかく健康に関しては、彼も容赦しない。 「冷蔵庫の中も保存食ばっかだったし、ろくに食材もねーじゃん。 オレ、わざわざパスタの材料買いに出たんだぞ」 「…………」 ここで『余計なお世話だ』と言わなくなったのは、クラピカも 成長したという事であろう。 実際、レオリオの指摘は図星なのだ。体が資本のハンター稼業 ゆえに最低限の健康だけは保っているが、かなり劣悪な食生活 なのは否めない。 「乳製品やら海草やら卵やら、多めに買っといたからな。全部 腐らせずに食えよ」 「…………」 料理が苦手なクラピカにはキツイ言葉である。 それでも彼の配慮を思えば、はねつける事などできなくて、 無言のままパスタを咀嚼した。 「味どうだ?」 「……美味しい」 「だろ?なんたってオレは『嫁にしたい男ナンバー1』の栄冠に 輝いた男だからな♪」 瞬間、クラピカは咽喉を詰まらせかける。 「な、何…」 「仲間内の野郎どもがこぞって惜しがるんだぜぇ?オレが 料理上手で、気立ても良くて、掃除や洗濯もスゲー上手だから、 女だったら絶対嫁にしたいのにー!ってさ」 自慢げに語るレオリオとは対照的に、クラピカは憮然とした。 心の中で安堵の息をついたのは内緒である。 しかしそんなクラピカの心境を見抜いたようにレオリオは 続けた。 「男だけじゃなく、女からも『嫁にしたい』って言われんだよなぁ」 「!!」 反射的に顔を上げると、レオリオの悪戯っぽい瞳と目が合う。 「心配すんな。オレは売約済だって、みんな知ってるからさ」 しかし確たる約束もないまま何年も現状維持である事を思うと、 クラピカには、嬉しいけれど耳の痛む一言だった。 「…………レオリオ。別に私に義理立てせずとも」 「こんなに尽くしてるオレを捨てないでくれよ?」 意地のように発言しかけたクラピカを、レオリオは先制攻撃で 黙らせる。 この類の遣り取りでは、クラピカに勝ち目はなかった。 食後まもないクラピカに先んじて、レオリオは浴室を借りる。 長湯しない性質らしく、すぐに出て来たが、パジャマ一枚と いう薄着ぶりに、クラピカは瞠目した。 「そんな格好では風邪を引くのだよ」 「だって、上に着る物とか持って来てねーもん」 「……レオリオの国も今の季節は冬ではないのか?」 「冬だぜ。平均最低気温は15度だけど」 普段通りのスーツ姿で出国したら、北上するにつれ 寒さが 増してきて、さすがに耐えられず乗り継ぎの空港で冬コートを 購入したと言う彼に、クラピカは溜息をつく。 旅慣れているというか無頓着というか、レオリオはいつも 小さなトランク一つだけを携えて訪れる。 最低限必要なトラベルセットは入っているとはいえ、何かが 要り用になっても何処ででも買えるという便利さが祟って いるようだ。 「これでも被っていろ」 せめて寒さしのぎにと、クラピカは毛布を渡した。 それから支度を整え、今度は自分が浴室に入る。 浴室はユニットバスで、兼用の脱衣所には湯気が漂っていた。 バスタブには新しい湯が張られており、おかげで服を脱いでも 寒くない。 レオリオは本当に、細かいところにまで気のつく男である。 心まで温まるような気分で、クラピカは風呂に浸かった。 あまり長く入浴していると、からかわれるネタが増えるので クラピカは適当なところで浴室を出る。 新しい下着を選んだのはなかば無意識だったが、そしらぬ ふりでパジャマと上着をきっちり着込み、リビングへ戻った。 「ナイスタイミング。紅茶が入ったぜ」 見はからったかのようにレオリオは振り返る。 テーブルの上には、茶葉の香りが漂うティーカップが二客。 「…ありがとう」 「コーヒー買って来るの忘れたから、オレも紅茶な」 紅茶党のクラピカの部屋には、インスタントのコーヒー缶すら 置いていない。 そういえば、前に来た時も彼はコーヒーを飲みたがっていた。 次に来る時までに用意しておくと言ったのに、日々の多忙に かまけて約束を果たしていなかった事に気づき、クラピカは 申し訳なく思う。 せめて、少しだけ正直になろうと考えた。 「……なんだか、嬉しいな」 「ん、何が?」 「こんなふうに、暖かく過ごせる事が…」 暖房で暖まった部屋も、美味しい手料理も、要望せずとも 用意される風呂や紅茶も、それは確かに嬉しいけれど。 何よりもレオリオの存在が大きい。 ――― 部屋に入った途端、太陽を感じた気がした。 真冬でも、夜中でも、彼そのものが、クラピカにとっては 沈まない太陽の如く。 「……これが『幸せ』なのだなと実感するのだよ」 「そいつは光栄だ」 レオリオは嬉しそうに笑い、クラピカに身を寄せる。 触れ合わせた唇は温かく、ボディソープの匂いがした。 「あったけぇな」 「湯上りだから」 暖房の効いた室内は充分に暖かいが、人肌のぬくもりは特別だ。 レオリオは腕を回し、ほんのりと暖かいクラピカを抱き寄せる。 「ん、確かにちょっと幸せかも」 「『ちょっと』?」 「訂正。ものすごい至福」 くすくすと笑いながら、戯れるように頬や額にキスをする。 改めて、レオリオは細い身体を抱きしめた。 「……なァ、クラピカ」 「…ん?」 「毎日、幸せな気分になりたくねえ?」 「――― え?」 クラピカはふと顔を上げた。 照れくさそうな、だけど真摯なまなざしと視線が合う。 「毎日、暖かい部屋で迎えてやるよ」 「――― ……」 「美味いメシも作るし、紅茶も上手に淹れる。掃除も洗濯も 得意だぞ」 「…………」 「子供も好きだし。何があっても、しっかり家庭を守るからさ」 ――― どうも何か、どこかズレているような気がしていたが。 ようやく気づいて、クラピカは苦笑する。 そういうセリフは、普通、女の方が言うものだ。 「……さすがは『嫁にしたい男』だな…」 「お前がもらってくんなきゃ、もったいねえ事に一生独身だぜ?」 間近に迫った瞳が楽しそうに覗き込む。 クラピカはレオリオの顔を両手で包み込み、微笑みながら言った。 「明日、買い物に出かけよう」 とりあえず、歯ブラシと、ヒゲそりクリームと、ガウンと、スリッパ。 使い捨てのトラベルセットではなく、専用の物を常備しよう。 コーヒー豆と、豆挽きと、サイフォンも。 この部屋で、レオリオが快適に過ごせるように。 |
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END |