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「本船はこれより魔物が棲む海域を通過する。全員、襲われねえ
ように注意をしとけ」
くじら島を出発した船は、ハンター試験の受験生(候補)を篩に
かける為、わざと魔物の生息する海域へと向かっている。
嵐という気候も加わり、予想以上に厳しい道のりを想像させた。
「魔物の海域を出る一時間後に、試験会場への説明をする。
ハンターになりたい奴は、甲板に上がって来い」
揺れの強くなってきた船室では、有象無象の猛者たちが、
船長の忠告をせせら笑いながら、時間が経つのを待っていた。
しのび寄る気配に気づく事も無く。
「――― 痛てっ!」
船室の隅から上がった声に、レオリオは振り向いた。
同席しているのは皆ライバルだが、傷病沙汰かと思うと、やはり
気になってしまう。
「…なんだぁ?コレ」
叫んだ男が持ち上げたのは、サッカーボール大の半透明の
軟体動物。
見たところ、クラゲの一種か何かのようだ。
「コイツの触手かよ。チクショウ」
忌々しそうに、男はクラゲもどきを床に投げつける。
「クラゲなんかに刺されてんじゃねーよ」
「小便でもかけときな」
そこかしこから下卑た声が飛び、嘲笑がさざめく。
レオリオは毒性の有無を考えたが、当の男は倒れもしなければ
痛がってもいないので、少なくとも即効性の毒は無さそうだと
判断し、放っておいた。
激しさを増した風雨と、船が軋む音だけが響き続ける船室で、
時折小さな叫びが上がる。
どこからか侵入して数の増えたクラゲもどきが、船室内を徘徊
しているらしい。
だがそんなものを警戒する余裕はなかった。誰もが船酔いを
避けるべく、己の三半規管の安定だけに集中している。
(………?)
やがて、レオリオは不審に気づいた。
クラゲに刺された男の事が多少なり心にかかっていたので、
無意識に目を向けたのだが。
「……おい、何やってんだ?」
思わず声をかけてしまう。
男は壁に向かって蹲るように座り、両手を前に持ってきて、何やら
ごそごそと動いており、息も荒い。
「――― おい!お前、いくら何でも、こんなトコで…!!」
その体勢と気配にピンと来て、レオリオは咎めるように立ち上がる。
しかし視点が変わった事で、異常事態に気がついた。
見回せば、周囲の連中も様子がおかしい。
目が据わり、赤く上気した顔で、ハアハアと肩で息をついている。
そのギラギラした雰囲気は同性でも――― いや、同性だからこそ
わかるというもの。
かなり極限の、発情状態だった。
「な…なんだ?お前ら、一体……」
「うおおお!辛抱たまんね――― っ!!」
遂に一人の男が獣と化し、突進して来る。
危うく抱きつかれそうになり、レオリオは仰天して身を避けた。
通常でも、男に抱きつかれて喜ぶ趣味は無い。ましてや、目に
見えるほど欲情している相手では尚更だろう。
レオリオを抱きしめそこねた男は、よろけて別の男にぶつかる。
すると今度は、その男にターゲットを変更してしまった。
「お前でもいい!やらせろォ――― !!」
「ううっ……オ、オレも誰でもいい!ヤリてぇ――― !!」
そのまま、世にもおぞましい展開に突入する。
暫し呆然としていたレオリオだが、我に返って周りを見た。
「な、な、な……」
正に地獄のような光景に、凍りつく。
むさくるしい野郎が集団で、相手かまわずくんずほぐれつ。
一人や二人なら、ソッチの趣向の男がいても珍しくはないが、
ほぼ全員がそうというのは絶対に異常だ。
油断すると、四方から伸びて来る手に押し倒されかねない。
吐き気と怖気と眩暈に襲われ、レオリオは船室からの脱出を
決意した。
(!!)
その時、視界の端にキラリと光るものがよぎる。
乗船した時から、レオリオの興味を引く人物がいた。
『少女』なら迷わず声をかけたけれど、『少年』かどうか判断が
つきかねて、チラチラと視線を送るだけだったのだが、それは
レオリオだけではなかったらしい。
薄暗い船室の中でひときわ目立つ、金の髪。
船室の一角に吊ったハンモックに休んでいたその人物は今、
欲情した男たちに囲まれ、壁際に追い詰められていた。
むろんハンター志望者だけあって、おとなしく襲われてなど
おらず、二刀一対の剣を華麗に操り、飛びかかる狼どもを
バッタバッタとなぎ倒している。
異常事態に気づいた時、クラピカは逃げるより先に分析を
始めた事を悔いていた。
妙な気配は早い内に察したが、密閉空間ではありがちかもと
考えていたら、またたく内に広がって。
この世のものとも思えぬ光景に驚く間もなく、退路を阻まれて
しまった。
おそらく、例のクラゲもどきが原因だろう。触手の先端の棘から
強い催淫作用のある物質が分泌されていたに違いない。
群がって来る男たちの目つきを見れば一目瞭然で、この場は
一刻も早く逃げるべきだろう。
理性を失った男たちを殴り倒しながら、クラピカは機会を探る。
だが一対多数では、それもなかなか難しかった。
「!?」
不意に、横から空樽が飛んで来た。直撃を受けた男が倒れ、
群れの中にわずかな空間が空く。
「――― 来いっ!」
「え!?」
突如として伸びて来た手に、クラピカは腕を掴まれた。
不覚と思うより早く、身体ごと引っ張られる。
それは胡散臭そうな連中の中で、唯一身なりがきちんとして
いた男だった。
色狂いの連中を殴り避けながら駆けぬけ、一直線にドアへと
向かう。
追って来る手はクラピカが払い退けた。
そしてようやく、船室を出る。
「!」
廊下へ出た途端、男がモップを手にするのを見て、クラピカは
咄嗟に彼の後頭部を殴りつけた。
「いってぇー!何すんだよテメー!?」
レオリオは振り向いて睨みつけるが、その目には正気の光が
宿っている。
先刻の男たちとは明らかに違った。
「殴る相手間違えてんじゃねーよ!オレは正義の味方だぞ!」
「……?」
むしろ挙動不審で、クラピカは身構えたまま警戒を解かない。
レオリオはブツブツと文句をこぼしながら、モップの長い柄を
カンヌキにして括りつけ、船室のドアを塞いでしまう。
「こうしてりゃ簡単には追って来れねぇだろ」
言葉通り、中からは何度かドンドンと叩く音が聞こえたけれど
すぐに野太いあえぎ声にまぎれてしまった。
「はー、やれやれ……う〜気色悪かった〜」
コブのできた頭をさすりながら、レオリオは息をつく。
その後ろ姿を見ながら、クラピカは剣を下ろした。
「……なぜ助けた」
「んあ?」
意外そうに問われ、レオリオは振り返る。
一族を失って以来、ずっと一人で生きてきたクラピカには
どこか人間不信の傾向があった。
まして服装が他よりマシとはいえ 人前で堂々と猥褻な本を
ヤニ下がりながら読んでいた男に気など許せない。
「我々は互いにライバルだろう。一人でも少ない方が後々の
試験に有利だと思わないのか」
「……まぁ、確かにそうだけどな」
見かけによらないきつい態度に、レオリオは苦笑する。
別に感謝の笑顔や賞賛の言葉を期待していたわけではないが、
もっと年齢相応の反応があるだろうに、と内心で呟いた。
「だからって、集団レイプは容認できねーだろ」
露骨な物言いにクラピカは絶句する。
言われてみれば、その危機に直面していたわけだ。
改めて考えると、背筋が冷たくなる。
一人でも撃退できる自信はあったが、やはり目の前の男に
感謝するべきなのだろうか。
「………あの」
「それと同じだ。いくら催淫作用で我を忘れてるったって、
よってたかってガキ一人に性的虐待なんざ、見逃せねえよ」
やわらぎかけた感情が、一瞬で硬化した。
「……私はガキではない!」
整った柳眉を吊りあげて睨みつけるクラピカに、レオリオの
目が丸くなる。
「私はじき17歳になる。子供扱いは失礼だ!」
背筋を伸ばし、強い語調でクラピカは言い切った。
しかし、レオリオは一笑に伏してしまう。
「そーやってムキになんのが、ガキの証拠だっつーの」
相手にもせず、飄々と階段を上がってゆく。
その広い背中を見ていると、確かに年齢の差を感じずには
いられなかった。
「体格の問題ではないのだよ……!」
それは自分に対して言った言葉か、相手に放ったものか
クラピカ自身もよくわからない。
一応は恩人と呼んでよい男だが、むしょうに感情を乱されて
しまった。
だがその後、決闘にまで発展してしまうとは、この時点では
思いもよらず。
そして――― ……
船を襲った巨大な魔物を撃退し、夜が明ける頃には、昨夜の
経緯が嘘のように穏やかな心境で相手を見ていた。
「改めて、よろしくな」
「ああ」
朝焼けの中、握手をかわす。
明るい場所で微笑む顔は、素直に可愛いと思った。
レオリオは船員たちの目が、魔物退治の立役者であるゴンに
向けられている事を確認し、そそくさと上着を脱ぐ。
「クラピカ、これ着ろ」
「え?」
「……目のやり場に困るンだよ」
クラピカは魔物との戦闘の中、ランプを自分のマントで包み
簡易爆弾として投げつけていた。
そして下に着ている白いシャツは、潮水に濡れた為に、半分
透けてしまっている。
先刻までは暗くて見えなかったが、今は昇りゆく太陽の光が
インナーに覆われた緩い曲線を照らし出していた。
「…!!」
気づいた瞬間、クラピカは真っ赤になって胸元を両腕で隠す。
その反応と仕草は、まぎれもなく少女のもの。
「お前、女だったんだなあ」
クラピカの肩に上着を掛け、レオリオは困ったように笑う。
ならば尚更、修羅場の船室から助け出して良かった。
それが本心だったのだが。
「……っこの、無礼者ォ!!」
船から放り出されそうな勢いで、殴りつけられた。
レオリオは間一髪でデッキに掴まり、転落を逃れる。
「な、何すんだよ!危ねーじゃねーか!」
「黙れ、痴れ者!」
赤面したまま、クラピカはプイと顔を背ける。
「何なんだよー!オレは正義の味方だぞー!」
「知るものかっ」
レオリオはやっとの事で船上に這い上がり、文句をわめく。
それを無視して立ち去るクラピカだが、肩に掛けられた上着は
しっかりと握り締めていた。
思えばそれが、恋の始まり。
今はまだ、誰もそれを知らない。
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