|
五月を前にしたある日、レオリオはクラピカと共に滞在している保養先の
離島に、ゴンとキルアを招待した。
ゴンの誕生日が近いので、一緒に祝おうという好意である。
タイミング良く、センリツからも近くに来ていると連絡が入ったので、彼女も
誘った。
誕生日の前日、三名の客は別荘に到着した。
保養地と言えば聞こえは良いが、緑と自然が豊富で、静かな田舎暮らしを
楽しめるというのが誘い文句だけに、見事なまでに何も無い僻地である。
ライフラインは完璧に整っているが、携帯電話は圏外、役所等の公共施設は
島の反対側、更には隣家も山一つ向こうといローカルぶり。
だが集合した面子は全員が名うてのハンターなので、特に問題は無かった。
彼らは久しぶりに再会し、レオリオの手料理を堪能し、近況を語り合う。
それぞれに姿も環境も変わっていたけれど、一番変化したのは、やはり
クラピカだろう。
彼女は今やレオリオの妻。そして、もうじき母になる。
「ねェ、クラピカ。赤ちゃんいつ生まれるの?
「まだ一ヶ月以上も先なのだよ」
見た目はあまり膨らんでいないお腹を見つめ、ゴンは相変わらず無邪気な
瞳で問いかけた。
応えるクラピカの笑顔は、以前とは別人のように穏やかで優しい。
「母親似だといーよな。もし女の子で、オッサンに似てたら悲劇だぜ」
「何を言うかキルア。オレによーく似た可愛い娘に違いない!」
「どちらに似ても、きっと強くて優しい子よ」
微笑ましいじゃれ合いを見ながら、センリツはクスクスと笑う。
そんなふうに、楽しく賑やかな夜は更けていった。
だが翌朝、前夜の平和が夢だったかのように、爆弾発言が投下される。
「破水した」
クラピカの言葉に、起きぬけのレオリオは暫し固まった後、パニックに陥った。
あわあわと言葉にならない声を発し、意味不明に走り回る。
「落ち着けレオリオ。仮にも医者のくせに、うろたえてどうする」
「だ、だ、だって、予定日はまだずーっと先で……!」
「来たものは仕方ないだろう。とにかく、何とかしろ」
「何とかって、何を。……おい、まさか?」
「もう10分間隔で陣痛が来ているのだよ」
言葉は冷静だが、クラピカの額には汗が浮き出ている。
もはや移動どころか立つ事もできないのは明白で、ベッドに半身を起こして
いるだけでも辛そうだった。
「レオリオ、お前は医者だろう。それに、この子の父親だ。……何とかして
くれなければ、困る」
苦しげに腹部を抱える愛妻の姿に、レオリオは医者の使命感を思い出す。
とりあえず、即効で病院に連絡したが、到着するまで数時間かかると言う。
保養先に田舎を選んだ事を激しく悔やむ。満産期までに街へ戻る予定だった
のに。
しかし今はそんな事を言っている場合ではない。
「何かお手伝いできるかしら」
気配を察して申し出たセンリツの存在が、今のレオリオには救いの女神の
ように見える。
「悪ぃな、助かるよ」
忙しない空気に気づいてか、まだ早い時間なのにゴンとキルアも起きて来た。
「レオリオ、どうかしたの?」
「朝っぱらから、何騒いでんだよ…」
寝ぼけまなこで現れた二人も、事態を知るとすぐさま覚醒し、助力を申し出る。
専門知識の無い少年たちに出来る事は限られているが、それでも十二分に
ありがたかった。
「タオルありったけ持って来たよー」
「サンキュ。汗拭きだけ枕元に置いて、後はテーブルの上に積んどいてくれ」
「おーい。湯、沸いたけど?」
「ああ、注射器とオペセットの煮沸たのむ。湯は続けて、バスタブいっぱいに
沸かしとけよ」
「飲み水と着替えと洗面器、用意したわ」
「すまねえな。そのへんに置いて、時間計っててくれ」
指示を飛ばしながら、レオリオはトランクから出した医療器具を机上に並べた。
「…縫合の糸も充分っと。よし。まさかの為にと一式持参しといて正解だったぜ」
白衣を着込み、タオルを頭に巻き、手術用手袋を嵌め、深呼吸をひとつ。
それから改めて、ベッドの上の妻に向かう。
この時点で、寝室のドアは閉ざされた。
「…どうしよう、キルア」
「どうって……もうオレたちに出来る事は無ぇだろうし」
助手に指名されたセンリツはレオリオと共に室内に残っており、少年二人は
廊下へ追い出されている。
ドアの向こうからは、時折クラピカの呻き声が漏れ聞こえた。
戦闘の時なら、どんな傷を負っても、悲鳴ひとつ上げなかったクラピカ。
それがこんなに苦しそうな声を出すなんて、よほどの事では無いだろうか。
「大丈夫かなあ……」
「レオリオとセンリツに任せるしかないだろ」
不安な面持ちで、ゴンとキルアは顔を見合わせた。
時の経つのが遅いような、早いような、不思議な錯覚。
ゴンとキルアは、一旦はリビングに移動したものの、どうにも落ち着かず、
結局、寝室前の廊下に座り込んでいる。
中では修羅場が展開されているらしく、苦しげなクラピカの声と交互に、
レオリオの必死な励ましが耳に飛び込んで来た。
「……まだだぞ、もうちょい、…息吸って、よし、その調子…」
「がんばれよ、あと少しだからな。……ああ、愛してるぜ…」
「こんな時に何言ってんだか、あのオッサンはよ〜〜〜!」
聞き耳を立てていなくても聞こえてしまう会話に、キルアは耳を塞いでしまう。
彼も彼なりに心配はしているのだろうけれど。
「クラピカを力づけようとしてるんだよ、きっと」
とは言いつつ、ゴンも祈るような気持ちで膝をかかえる。
その時、ひときわ高い苦悶の声が上がった。
「よし、切開するぞ。センリツ、麻酔」
(……切開?麻酔?)
ゴンの脳裏に疑問が沸く。外傷でもないのに、そんな措置が必要なのだろうか。
不安に高鳴る心音が、時計のように響く。
「―――――― ……」
「……え?」
「おい、今何か…」
ゴンとキルアは同時に寝室を向いた。猫のような鳴き声が、かすかに
聞こえ、思わず駆け寄る。
二人を迎えるように、ドアが開いた。
「わ…!」
現れたセンリツは、タオルにくるまれた赤い塊を抱えている。
ギャア、ギャアと、か細い叫びを上げるそれは。
「な、何、それ…」
「あ…赤ちゃん!?」
ゴンとキルアは仰天してしまう。『可愛い』という言葉を用意していたのに、
とても可愛いとは思えなかった。
正直言って、不気味でしかない軟体動物。謎の物体。エイリアン。
「これから産湯よ。手伝って」
「え?レオリオは?」
「まだ後産があるの。彼はクラピカについていなくちゃ」
「後……?」
恐る恐る寝室の中へ目を向けたゴンとキルアは、思わず息を呑む。
そこは血の海だったのだ。
ベッドのシーツも、用意したタオルも、レオリオの白衣も、血で真っ赤。
「ドア閉めろ!雑菌入れんな!」
そう怒鳴りつけるレオリオの口元にも、赤黒い血がこびりついている。
反射的にドアを閉じ、二人はセンリツの後を追って浴室に向かう。
血など見慣れているはずなのに、背筋が冷たくなったのは初めてだった。
センリツは適温の湯に赤ん坊を入れ、細心の注意を払いながら優しく洗う。
「よしよし、いい子ね……ほら、気持ちいいでしょう?」
絶叫し続けていた赤ん坊は、湯に浸けられるとおとなしくなった。
色々な意味でドキドキしながら、ゴンとキルアはその様子を覗き込む。
「うわー……ちっちぇー…」
「ホントに生まれたんだー…」
少し落ち着きを取り戻し、二人は初めて目にする新生児をしげしげと眺めた。
両手のひらに乗ってしまうような小さな身体。
薄い皮膚は、やわらかな肉や血管が透けて見えるほど。
細すぎる首はグラグラして、今にも落ちそうに危なっかしい。
その指は、何かを求めるように握ったり開いたりを繰り返している。
「こんなにちっちゃいのに、ちゃんと爪もついてる…」
「これがクラピカのお腹にいたんだなあ……信じられないや」
その連想で、ゴンは母体の事を思い出した。
「センリツさん。アトザンって言ってたけど、それ何?まだ生まれるの?」
「後産っていうのは、子宮内にあった赤ちゃん以外の物……胎盤や臍帯
やらが出て来る事よ。それらがきれいに剥離しないと大変らしいの」 赤ん坊を洗いながら、センリツは返答する。
「……さっき、レオリオの口に血がついてたんだけど。…何があったの?」
長いつきあいだが、レオリオに血のイメージは連結しない。ゆえに先刻の、
まるで人を喰ったかのような有様は、ある意味 衝撃的だった。
しかし返されたセンリツの言葉に、更なる衝撃を受けてしまう。
「彼はね、赤ちゃんの口や鼻腔に詰まっていたものを、口で吸い出したのよ」
「……口でえ!?」
赤ん坊の全身にこびりついていたものを、ゴンたちは、まのあたりにしている。
明らかに単なる血液ではないそれを、よりによって口で吸ったなどとは。
「そうしないと赤ちゃんが肺呼吸できないんだもの。病院なら吸引機で行うけど、
さすがお医者様ね。迷わず実行してたわ」
「…………」
「…………」
ゴンとキルアは顔を見合わせる。もしも自分達だったら、と思うと、とてもじゃ
ないが自信は無い。
そんな事ができてしまう彼は、やはり医者であり、父親だからに相違ない。
今更ながら、ゴンとキルアはレオリオを尊敬した。
ほどなく汚れが落ちて綺麗なピンク色の肌に変わった赤ん坊を、センリツは
湯から上げる。
「清潔なタオルはあるかしら?」
「あ、全部レオリオのとこ……」
やむなく、そばに掛けてあったバスローブで赤ん坊を包み、三人は浴室を出た。
再びクラピカ達のいる寝室へと向かいながら、ゴンは問うともなしに呟く。
「クラピカは大丈夫かなあ…」
「大丈夫よ。初産にしては時間もそんなにかからなかったし」
「でも、すごい声してたけど」
「…産院には仕事でたまに行くけれど、他の人はもっとすごいわよ」
「え!?」
「クラピカは本当によくがんばったわ。骨盤がミシミシ軋む音が聞こえた時は、
私の方が逃げたくなったもの」
「…………」
「…………」
ゴンとキルアは再度、絶句した。話だけで自分達の骨盤が痛む気がする。
『あの』クラピカが、と思うような声を上げていたのに。
普通は、あれよりもっとずっとすごいって……
「母親の偉大さを思い知った?」
青くなってしまった少年たちに、センリツはクスリと笑う。
「どこの母親も皆、あんなふうに必死で子供を生むのよ。時には命に関わる
場合だってあるかも知れない。貴方達も、この世に生んでくれたお母さんに
感謝なさいね」
「感謝ねえ…」
母親に対してあまり良い思い出の無いキルアは、複雑な声を漏らした。
察しながらも、センリツはあえて続ける。
「親子ゲンカとかで、よく『生んでくれと頼んだ覚えは無い』なんて言う子が
いるみたいだけど、それは大きな間違いなのよ。実際は胎児が『生まれたい』
って騒ぐから陣痛が起きるんだもの。皆そうやって生まれて来たのよ」
子供は親を選べない。
だけど、この世に生まれる事を望んだのは子供自身。
子供の願いを受けて、母親は生んでくれたのだ。
それだけは真実だから。
寝室に戻ると、既に後産も無事に終わったらしく、嵐の去ったような室内で、
レオリオは座り込んでいた。
「お待たせ、赤ちゃんとの対面よ」
「ああ……ありがとな」
だが嬉しそうに手を差し出すレオリオを、センリツは素通る。
「母親が先。貴方は、手と顔を洗って服を替えなさい」
そう言われて、レオリオは初めて自分が手も顔も白衣も血みどろである事に
気づいた。
「おめでとう、クラピカ。元気な赤ちゃんよ」
「ありがとう……」
憔悴し、ぐったりとベッドに沈んでいたが、クラピカは穏やかに返答し、傍らに
寝かされた赤ん坊を見つめる。
「……小さいのだな」
「月足らずだもの。でも大丈夫、とても元気よ」
「…目の色は?」
「多分、パパとお揃いだと思うわ」
「そうか……」
優しく微笑し、子供の手に触れるクラピカの瞳から涙が溢れた。
「私の子……なのだな…」
「オレとお前の子供だよ」
消毒と着替えを終えたレオリオがベッドに歩み寄る。
先刻までのスプラッタな物体とはうって変わり、人間らしい姿の赤ん坊に、
父親の実感がわいているらしい。
「レオリオ……」
「御苦労さん、クラピカ。よく頑張ったな」
レオリオは赤ん坊を挟んで、愛しい妻にキスをする。
感謝と、労わりと、愛情を込めて。
まだどこか遠慮して、ドアの傍から様子を見ていたゴンは、込み上げる感情に
瞳を潤ませる。
(……ジンも、あんなふうに喜んでくれたのかなあ)
(……お袋、あんなシンドイ事、よく五回もする気になったなあ…)
思う事は様々だが、親という存在に対する認識が変わったのは確かだった。
出産から遅れること数時間、ようやく救急医が到着し、改めて診察したが、
母子共に健康で、処置も適切だと太鼓判を押された。
予定より早く生まれた割には心肺機能もしっかりしているし、感染症などの
心配も無さそうなので、即座に病院へ連れ去られずに済んだ。
寝室に持ち込まれた保育器の中の赤ん坊と共に、クラピカは、センリツの笛で
休息を取る。
「かんぱーい!」
その夜、レオリオは最大の功労者を差し置いて、一身に祝いを受けていた。
最初は妻子の傍に居たがったが、安眠妨害だと寝室を追い出されたので。
「昨夜の大騒ぎを聞きつけて、自分も参加したくて早く出てきちまったのかなあ」
「でも良い経験させてもらったよ。オレ、人間の出産に行き会ったの初めてだし、
感動しちゃった」
「フツー無ぇよな、オレたちの歳じゃさ」
早朝から始まって、あっという間に過ぎ去った激動の一日を振り返り、生命の
誕生という神秘を思う。
「……あれ?もしかして、今日ってゴンの誕生日じゃねー?」
「え?あ、そういえばそうだ」
もう一日も終わりという頃になって、ようやく思い出す。元を正せば、その為に
集合したのだった。
「悪ぃな、ゴン。こんなバタバタした事になっちまって」
「ううん、いいよ。レオリオたちの赤ちゃんと同じ誕生日になれて嬉しいや」
無邪気な口調でゴンは笑う。つられるように、全員に笑顔が広がった。
「あら、賑やかね」
ヒーリングを終えたセンリツもリビングに姿を現す。
母子は共に眠ったらしく、一同は改めて安堵の息をついた。
「ともあれ、無事に終わって安心したぜ。もし輸血とか帝王切開なんて事に
なったら、どうしようかと思ってたけどな」
「……え?したんじゃないの?」
レオリオの呟きを聞きとめ、ゴンが問いかける。
「するわけねえだろ?帝王切開ってのは、自然分娩が無理な時に母体の
腹部を切って赤ん坊を取り出す手術だぜ。いくらオレでもそんな真似、設備も
ロクに整っていないとこで成功させる自信無いし」
「でも、聞こえたけど」
「何が?」
「切開するから、麻酔って」
瞬間、レオリオとセンリツは凍りついた。
「そもそも、メスとか縫合とかって、何に必要だったの?出産は外科手術とは
違うみたいなのに」
「…………」
「…………」
――― 言えない。
とても言えない。この思春期の少年に。
まだ幼さの残る無邪気なゴン・フリークスに。
「レオリオ?」
「……いや、その、えっと…………」
産道から子供の頭を出す為に、某所を切るなんて。
いくら何でも、まだ刺激が強すぎる。
言うわけにはゆかない。
「あ、あー!そうだ、かかりつけの医者に連絡入れるの忘れてた!悪ぃ、
ちょっとメールして来るわ」
レオリオは不自然な笑顔と共に立ち上がり、書斎へと消える。
その態度に疑問を抱きつつも、ゴンは次にセンリツを向いた。
「センリツさん?」
「あ、あら?赤ちゃん起きちゃったみたい。様子見て来るわ」
引きつった笑みを浮かべて、センリツもそそくさと逃げてゆく。
さっきまで宴会だったリビングは、微妙な沈黙に包まれた。
「……キルア?」
「さあ……?」
常々、親友ゴンの心身共に健全な育成を望んでやまず、それに伴う苦労の
絶えないキルアだが、今回は何処にもツッコミようが無い。
なぜならば、彼自身も知らないから。
「…なんか、まだまだ、オレたちの知らない事がたくさんあるみたいだね」
「そうだなぁ…」
「いつか、もっといろんな事がわかるようになりたいな」
「そうだな」
世の中には、青少年は知らなくて良い事もある。
年齢相応の知識を得つつ、順当に健全に成長したまえ。
とりあえず、この日に生まれて来た君へ、ハッピーバースディ。
|