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クラピカがその街へ来たのは、本当に偶然だった。
その頃、切札である愛娘の能力の不調を単なる我侭とみなして
いた雇い主は、現実から逃避するように旅行を思い立ち、クラピカを
含む複数のボディーガードを伴い私用船にて南方へ飛んだ。
ところが到着間際、着陸予定の空港でトラブルが発生し滑走路が
一時閉鎖された為、目的地を変更して最寄の空港へ降りる羽目に
なってしまった。
変更地の国名を聞いた時からクラピカの胸はざわめき続けている。
なぜなら、そこはレオリオの故国だったから。
飛行船の窓から見下ろす大地は、彼が自慢げに語っていたとおり
ぬけるような紺碧の空と海、そして豊かな緑が美しい。
暦ではもはや秋だというのに、この国にはまだ夏の面影が残っていた。
この地のどこかにレオリオがいる。
そう思うだけで心が弾むような気がしたけれど、彼の住む町は空港
所在地からはだいぶ遠いし、仕事で来たのだから、出会える可能性
など無いだろう。
ところが。
適当なホテルに入った一向が荷物を置いて落ち着くや否や、一人の
女がドアを叩いた。
それは雇い主の情婦の一人で、たまたまこの地方を旅行中、空港で
彼の私用船を見かけたので追ってきたと言う。
目新しい観光も娯楽も乏しい小国への滞在をぼやいていた雇い主は、
この予期せぬ来訪者を歓迎し、大喜びで迎え入れた。
その後は言うまでもなく、ボディガードたちは翌日までの休暇を
命じられ、早々に部屋から追い出されることとなる。
クラピカは当初、隣室で待機するつもりでいたが、センリツの強い
勧めもあり、気づいたら最高速の車両に飛び乗って、レオリオの住む
街へ到着していた。
駅の周辺は賑わいにさざめいているが、騒々しいばかりの首都とは
違い、生き生きと楽しそうな活気に満ちている。
行き交う人々は黒髪が多く、日焼けした健康的な肌をしていて、皆
どこかレオリオと似た面影があった。
そのせいなのか、初めて訪れたのに、不思議に懐かしいような気が
する。
携帯のナビゲーション機能には、既にレオリオの住所がインプット
済みだ。徒歩でも、それほど時間をかけずに行ける距離である。
しかしクラピカはまだ迷っていた。
以前、いつか訪ねてくれ、ああ訪ねよう、と口約束はしていたけれど、
ふってわいた偶然とはいえ、こんなに早く実現するとは予想外で、
クラピカ自身、心の準備ができていない。
それでも吸い寄せられるように来てしまったが、当のレオリオには
まだ何一つ連絡を入れていなかった。
(――― やはり何の先触れも無く訪ねて行くのは失礼だろうな。第一、
もしも留守だったら……)
ためらいと期待の交錯する中、クラピカは携帯を持ち直す。
しかし登録画面にある彼の名を目にした時、ふと思い出した。
思いがけず現れた情婦の姿を見た瞬間の雇い主の顔。
それまで苦虫を噛み潰していたのに、まるで子供のような満面の
笑顔に変わった。
クラピカにとっては嫌悪と軽蔑の対象でしかない男だが、あの時の
嬉しそうな表情は、とても印象的だった。
そして二人の会話。
『びっくりさせたくて、こっそり来たのよ』
『最高のプレゼントだな』
――― 不意の来訪とは、そんなに喜びを伴うものなのだろうか。
珍しくもクラピカに悪戯心が沸き起こったのは、この地方の開放的な
空気と、レオリオとの再会の予感に、知らず浮かれていたからかも
知れない。
手にした携帯は、そのままポケットに仕舞われた。
大きな通りをいくつか抜け、商店街を曲がり、小路を進み、住宅街と
おぼしき区域へ入る。
地元の住民たちは皆、明らかに異国人と分かるクラピカの美しさに
目を奪われていたが、本人は一向に気づかない。
興味を持った男たちが声をかける隙すら無く、ただ足早に目的地へと
向かっていた。
やがて、小高い丘の上に目指す建物を発見する。
それは集合住宅ではなく一戸建て、周囲には緑の庭が広がる家で、
クラピカは少し意外だった。
確かに、ハンターの肩書きがあれば、どんな豪邸にも住めるけれど。
それにしては小ぶりな住宅だ。
だが細かい疑問などより、浮き立つ心を自覚する。
ドキドキと高鳴る鼓動は、懸命に歩き続けたせいだけではないだろう。
ふと、庭先のテラスでカーテンが揺れるのが見えた。
その影からのぞいた人影に、クラピカの心臓は一層激しく跳ねた。
(レオリオ……)
彼は相変わらず高い背で、丸い縁の眼鏡をかけている。スーツでは
なく、カジュアルな服装が新鮮だった。
クラピカは挨拶の文句を考えてなかった事実を思い出し、今更ながら
戸惑い、立ち尽くす。
それでも、久しぶりに目にするレオリオの姿から目を離せない。
喜びを噛み締めるように、彼の一挙一動を食い入るように見つめる。
「――― そろそろ、お茶にしようぜ」
瞬間、彼の発言にハッとした。
それは路上のクラピカではなく、室内に向けて告げられていたから。
誰か来客でもいるのかも知れない。それでは自分が割り込むのは
悪いかも。
そう思いはしたが、せっかくここまで来たのに、文字通り顔を見ただけで
帰るのは惜しすぎる。
やはり連絡をしておくべきだったか。
クラピカは何だか寂しい気持ちになり、どうしたら良いものかとしばし
逡巡する。
ふと、聞くともなしに話し声が聞こえてきた。
「お前の好きそうなクッキー缶があるんだ。こないだみたいに全部
一人で食うなよ?半分はオレのだからな。いくらかわいー顔したって
譲んねーぞ。……お前、甘いもん好きだよなあ。今度ケーキ焼いて
やるよ。レオリオ特製の、うまーいやつ。……お返しなら、チューして
くれりゃそれでいいからさ」
クスクスと楽しそうな笑い声と共に流れた内容は、クラピカを凍り
つかせた。
それはどう聞いても、恋人同志の会話。
(――― まさか……)
否定したくても、他に考えつかない。とても友人同志で話す内容では
ないし、彼の明るい口調も、それを証明しているではないか。
気づけば、窓越しに見える室内には二人掛けのラブソファーがある。
別の小窓には、一つのコップに立てられた2本の歯ブラシ。
庭で日光消毒している枕はペアで、二人分。
(そんな……)
認めたくはない。
だけど、目の当たりにした現実は無視できない。
クラピカの脳裏にさまざまな記憶と想像がなだれ込む。
そもそも、レオリオとは明確な『約束』をかわしたわけではなかった。
二人の仲はいっときの感情だけで、彼はもう冷めてしまったのかも
知れない。
その時は本気でも、帰国して新たな恋人ができたのかも知れない。
――― 実は最初から恋人がいたのかも知れない。
悪い推測ばかりが点滅して、クラピカは愕然とする。
考えてみれば、復讐の道を生きる自分をいつまでも想っていてくれる
などという愚かな思考を、なぜ今まで確信していたのだろう。
遠く離れて他の事に血道をあけてるのだから、見限られても当然では
ないか。
それにレオリオのような優しい男を、女が放っておくはずがない。
彼は今、別の誰かを見つめ、別の誰かを愛しているのだ。
胸の奥が氷の剣で刺し貫かれるように痛んだ。
戒めの刃が発動しても、これほど苦しくないような気がする。
辛さのあまり叫びだしたい。
クラピカは心を引き裂く感情を振り払うように、レオリオの家とは
反対側へ駆け出した。
――― 次の瞬間。
突如響きわたったバイクのブレーキ音に、レオリオは驚いて庭向こうの
通りへ目を向ける。
そして次には、もっと驚いた。
「……クラピカ!?」
彼の視界に飛び込んだのは、倒れたバイクと、その運転手。
そしてもう一人、この場にいるはずのない人物。
レオリオは即座に道路へ駆け出した。
路上にうずくまっているのは、間違いなくクラピカその人。
信じられなくて、問いかけずにはいられない。
「なんで……お前が、ここに…?」
「知り合いかい?レオリオ」
レオリオの顔見知りらしい男は、いきなり飛び出して来たクラピカを
避けようとして、走らせていたバイクを倒してしまった。
幸い徐行していた為、運転手に怪我は無かったけれど、わずかに
接触したクラピカは体勢が悪く、足を傷めてしまったらしい。
――― 不覚としか言いようがなかった。バイクを避けるどころか接近
にも気づかず接触し、結果、レオリオに見つかってしまうとは。
「怪我したのか?」
「平気だ、かまうな」
レオリオと顔を合わせたくなくて、クラピカはそれだけ言って立ち上がる。
しかし足に走った痛みで、よろけてしまった。
「やっぱり怪我してんじゃねーか。無理すんな、オレん家で休んで行けよ」
「断る!!」
支えようと手を差し出すレオリオをはねつけ、冗談ではないとばかりに
クラピカは叫んだ。
こんな経緯でレオリオの恋人と対面するなど、あまりにも自分がみじめ
ではないか。
「…どうしたんだよ?」
「……何でもない。こんな傷、すぐ治せる。そのくらい知っているだろう」
不思議そうに問うレオリオの無神経さにも腹が立つが、八つ当たりだと
わかっているので、クラピカはつとめて冷静を装おうとした。
「そりゃ知ってっけど……お前、オレに会いに来てくれたんだろ?」
「だ、誰がそのような事を言った!仕事で偶然立ち寄っただけなのだよっ!!」
それは半分偽証で半分真実だが、あまりにもムキになるクラピカに、
不自然さを感じぬレオリオではない。
「お前、何を怒ってんだよ」
「怒ってなどいない!私はそれほど野暮ではないからな!」
「あぁ?何のことを言ってるんだ?」
度重なるレオリオの問いかけは、いい加減、動揺と混乱のピークに
あるクラピカを激昂させるに充分だった。
「お前たちの邪魔などしたくないと言っているのだ!!」
「は?」
「……帰る!!」
つい出てしまった本音に狼狽しながら、クラピカはヨロヨロと歩き始める。
ホーリーチェーンを使うという考えすら頭から抜け落ちていた。
レオリオはしばし呆けたような表情をしていたが、ようやく状況が理解
できたらしい。
「――― っ!?」
突然、身体がフワリと浮き上がりクラピカは仰天する。
一瞬後には、レオリオに抱き上げられたと気づいて暴れ始めた。
「何をする!降ろせ!!」
「いーから。医者志望の言うこと聞け、怪我人」
そうしてクラピカを抱えたまま、レオリオは自宅へと戻って行った。
ちなみにこの間、不慮の接触事故に困惑していたバイクの運転手は、
一切が意味不明のまま無視されていたのである。
「降ろせ!バカ!レオリオ!!」
「家に入ったら降ろしてやるよ」
「イヤだと言っているだろう!!」
クラピカはジタバタと暴れながら無駄な抵抗を続けていた。
そうこうする間に、レオリオはさっさと室内へ歩を進めてしまう。
庭から入り、テラスを通って、先刻、楽しそうに会話していたテーブルの
前へと。
(イヤだ…!!)
レオリオの恋人の顔など見たくない。クラピカは思わず目を固く閉じた。
「クラピカ」
立ち止まったレオリオは、改めてクラピカに呼びかける。
クラピカは顔を背け、体を縮こまらせたまま動かない。
「クラピカ」
もう一度、呼ばれる。
それでも無視するクラピカに、レオリオは少し考えて、しばしそのままの
体勢でいた。
(…………?)
クラピカは、『恋人』に抱えられて登場した自分に何か一言あっても良い
はずなのに、沈黙したままの『相手』を訝しく思う。
その一瞬を狙っていたのか、レオリオはクラピカを抱いたまま、いきなり
身体を反転させて後ろを向いた。
「――― !!??」
ふいを突かれたのと、驚いたのとで、クラピカは思わず目を開ける。
しまった、と思った時には、視界にレオリオの部屋が飛び込んでいた。
(……え?)
クラピカは反射的に閉じた瞼を、再び上げる。
見間違いか、それとも見たくないという心理の為せたわざか?
いや、そうではない。
正真正銘、誰もいなかったのだ。
クラピカは疑問と当惑に満ちた瞳を見開き、恐る恐る部屋を見まわす。
室内には確かに、自分たち以外には誰もいない。
ついさっき、レオリオは他の誰かと談笑していたはずなのに、人のいた
痕跡すら残っていなかった。
まるで狐につままれたようで、呆然とした呟きが漏れる。
「……どういう……事だ…?」
「も少し下、見てみ」
言われるがまま、クラピカは下の方へ視線を落とす。
目の前にあるのは、ティーテーブルと揃いの椅子2脚。
テーブルの上には飲みかけのコーヒーと、開封されたクッキーの缶が
乗っている。不審でも何でもない、ティータイムの定番品だ。
カップの横には何冊かの雑誌、そして一枚の写真――― ……
「………………」
言葉もなく凝視するクラピカに、レオリオは聞き慣れた悪戯っぽい口調で
問い掛ける。
「お前、何を誤解してた?」
「…………」
「オレって、そんなに信用されてねーの?」
「………だ、だって… …………」
のぞきこむレオリオの瞳は微笑んでいるけれど、クラピカはバツが悪くて
正視できない。
「………………。……写真相手に話しているなど、誰が想像できる……」
「仕方ねえじゃん。遠距離恋愛で寂しいとな、写真でもいいからお前の
顔見て話したいって気持ちになるんだよ」
「…………二人分の家具や小物が揃えてあるし……」
「お前がいつ来てもいいように準備してんのさ。それに、けっこう『虫よけ』
にもなるからな」
「?」
立場が優勢なのが嬉しいのか、レオリオは更に胸を張って言った。
「オレこう見えてもモテるんだぜ?ただでさえ水もしたたるイイ男なのに、
ハンターで金持ちで未来の医者なんてオイシイ条件がそろってるからさ。
ちゃんと売約済みだってアピールしてなきゃ、もう女が寄って寄って大変
なんだよなー♪」
「…………」
誇張しているのは確かだが、すべてが嘘ではないだろう。
クラピカは嬉しいような悔しいような複雑な思いでレオリオを見つめる。
「オレって一途でけなげだろ?」
「…………」
まったくその通り。だけど自分から率先して言うなら、賛同の言葉など
絶対に言ってやらない。
「惚れ直した?」
「………バカ」
それも、その通り。彼の愛情と思いやりの深さが、嬉しくて仕方ない。
素直に言いはしなかったけれど、クラピカは疑ってしまった後ろめたさで
頬をほの赤く染めながら、ふわりと笑った。
そしてレオリオの首に腕を回し、しっかりとしがみつく。
改めて、再会の喜びを伝え合うように。
「…会いたかったぜ、クラピカ」
「……私もだ」
ようやく実感が沸いてきて、二人の胸の奥が熱くなる。
クラピカを抱き上げているレオリオは、両手が塞がっているのを少々
惜しく思いながら、金の髪に唇を寄せた。
「まさか今日…こんなに早く会えるなんて、思わなかった…」
「私もだ」
クラピカは本日ここへ来るに至った経緯を簡単に話す。
幸運な偶然と運命に感謝しながら。
「――― 休暇は明日までか?」
「ああ。ただし緊急の召集がかからないとは言えないが…」
「だったら、急がなきゃな」
そう言って笑うと、レオリオは再び歩き始める。
クラピカも意図を察して微笑み、レオリオの胸に顔を寄せた。
ここは恋する二人の為の家だから。
隣室へ消える二人を、一輪挿しのストレリッツィアが見送っていた。
END |