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─── 誰かが私を呼んでいる。
遠くはるかな次元から。
かすかな声で呼びかけている。
毎日、毎日───
「気のせいじゃねぇのか?別に何も聞こえないぜ」
朝食の席でレオリオはクラピカにそう言った。
「でも、最近は夢にまで見るのだよ。……内容はよく覚えて
いないが、確かに、誰かが私を呼んでいるのだ」
「……もしかして、精神的なモンかな?」
「…………」
クラピカは口ごもってしまう。心当たりが無くもないから。
ハンターでいるべき理由が無くなった彼女が、レオリオと共に
暮らし始めて半年以上が過ぎている。
環境や生活の変化にもようやく慣れて、落ち着いた日々を送って
いた。
なのに最近になって、不思議な現象に悩まされている。
どこからともなく、声なき声に呼ばれている気がするのだ。
クラピカの脳裏によぎるのは、クルタの亡き同胞たち。
無残な死を遂げた彼らと違い、自分は生き延びて平穏な日常と
幸せを得ている。
クラピカはずっとその事を、心のどこかで負い目に思っていた
から。
幸福であればあるほど罪悪感も強くなり、それが幻聴となって
現れているのかも知れない。
レオリオも、彼女のそんな思いを知っているから、一概に
気のせいとは決めつけられなかった。
「…昔お前に袖にされた男が、未練残して嘆いてんじゃねーの?
『なんで他の男のものになっちまったんだー』ってさ♪」
思いつめてしまいそうなクラピカを案じて、レオリオはわざと
軽薄な意見を述べた。
ところが今のクラピカは、冗談が通じる心境ではなかったらしい。
「─── 人が真剣に悩んでいるのにっ!」
ただでさえ低血圧気味なのに加え、睡眠不足だった彼女は、
すっかり機嫌を損ねてしまった。
結局レオリオは、出勤時間に追いたてられ、愛妻に一度も
笑顔を向けられず送り出される羽目になる。
午前中の家事を済ませ、クラピカは一息ついてソファに腰掛けた。
夢見が良くなかったのか、なんだか眠気が強い。
背もたれに身体をあずけ、ウトウトと目を閉じる。
………………
─── …………
(……ああ、まただ)
無意識に近くなればなるほど、呼び声を強く感じる。
誰なのか、どこからなのか、言葉なのかさえ、わからない。
だけど自分を呼んでいる事だけは確信できる。
─── …………
(誰なのだ?)
─── …………
(…私に、一体なにを告げたいのだ?…)
RRRRRR……
その時、沈みかける思考を覚醒させるように電話が鳴った。
「─── はい」
『クラピカ?私よ』
受話器の向こうから流れたのは、忘れもしない親友の声。
「センリツ!」
『久しぶりね。どうしてるかなと思って。…今いいの?』
「もちろんだ。元気だったか?」
センリツは、レオリオのもとへ行くのを迷うクラピカを諭し、勇気
づけて送り出してくれた恩人である。
言葉をかわすのも、その時以来だった。
彼女は相変わらず穏やかな声で、うたうように語りかけてくる。
その優しさは、レオリオとはまた違った意味でクラピカの心を
癒してくれた。
『元気そうで良かったけど……何か心配事でもあるの?』
電話越しでも心情を見ぬいてしまう彼女の聴覚は健在のようで、
クラピカは苦笑する。
嘘をついても通用しないだろうし、偽証するつもりも無いので、
差し障りの無い程度に話すことにした。
「……今朝、つまらない事が原因でケンカしたのだよ」
『あら』
「睡眠不足でイライラしていたので、当たってしまった」
『クラピカったら』
それでもセンリツには二人の仲むつまじい様子が伝わっていた。
クラピカの心音に、以前の張り詰めたような響きはどこにも無く、
穏やかな安らぎに満たされているから。
少しだけ沈んだリズムなのは、今朝のケンカとやらを気にして
いる為だろう。
些細な夫婦ゲンカも、幸せの片鱗。
センリツには、まるで目に見えるようだった。
相変わらず素直になれないクラピカ。
そんな彼女を癒し、包み込むように愛情を注ぐレオリオ。
彼は今も、怒らせてしまった愛妻を気にして、近くで様子を見て
いるのだろう。
『仲の良い証拠よ。あまり困らせないであげなさいね。ところで
今日は彼、仕事お休みなの?』
「いや、夕方まで往診に出ているのだよ」
『─── え?』
その言葉に、センリツは不思議に思って聞き返す。
『……だって、今、貴方のそばにいるでしょ?』
「誰もいないぞ?家の中は私一人だし」
センリツは改めて聴覚に意識を集中させた。
トクン、トクン、トクン…………
聞こえるのは、降り注ぐ陽光のような、凪いだ海のような、
やわらかで優しい二重唱。
わずかに疑問符を漂わせているクラピカの心音の他に、もう
一つ、弾むような期待を帯びて、呼びかけるような音色が
かすかながらも存在している。
それは以前、ヨークシンシティで聞いたレオリオの心音によく
似ていた。
だから彼だと思っていたのに、違うのだろうか。
しかし間違いなく誰かがいる。
そしてクラピカを呼んでいる。
彼女のすぐ近くで。
ほぼ同位置で。
まるで重なり合うように─── ……
『!』
センリツはハッと気付いた。
夕刻。
拗ねてしまった愛妻の横顔を思い出しながら、レオリオは帰宅
する。
クラピカは最近 季節の変動のせいか、家事疲れなのか、少し
神経質になっているようだ。
幻聴もそれが原因かも知れないが、もっと真面目に相談に乗る
べきだったかも知れない。
精神的なものが原因なら、尚更である。
何にせよ、そんなに長期間ケンカしていたくない。やはりいつもの
ように、自分が謝って事を納めるべきだろう。
レオリオは謝罪と仲直りの文句を口の中で反芻しながら、玄関の
ドアを開ける。
(あれ…)
途端に、美味しそうな料理の匂いがふわりと漂う。
ケンカしていても家事だけはきちんとこなすクラピカだが、今回は
いつもの簡単メニューではないらしい。
「…ただいま、クラピカ」
「お帰り、レオリオ」
明るい声がレオリオを出迎える。
その口調から、機嫌を直してくれた事を察し、レオリオの胸の
つかえがスッと降りた。
ダイニングテーブルを見ると、ズラリと皿が並んでいる。
どれもこれもレオリオの好物ばかりで、珍しく気合いを入れて
調理したと思われた。
(クラピカも仲直りしたかったのかな)
今までケンカのたびに率先して頭を下げ続けていたレオリオは、
少々意外ながらも、彼女の気持ちを嬉しく思う。
「うまそうだな。がんばったんだな、クラピカ」
「すぐに食べられるのだよ」
「ああ。でも……」
レオリオは上着を脱ぐと、エプロン姿の愛妻を腕に捕えるように
抱きしめた。
「先に、こっち食べたくなっちまったv」
絵に描いたような新婚の様相で、レオリオはクラピカの唇を
求める。
たいていは『料理が冷める』とか『まだ早い』などと色気無く断る
事が多いクラピカだったが、今回は素直に応じた。
それが更に嬉しくて、レオリオは何度もキスを繰り返す。
そして自然な経緯で、彼女の服に手をかけた。
「…待て、レオリオ」
しかし裾から手を入れた時点で、ストップがかけられる。
「悪いが、ソレはダメだ」
「…メシの後までおあずけか?」
仲直りの定番だし、せっかくの良い雰囲気が惜しくて、レオリオは
未練がましく手を這わす。
「ダメなのだよ。しばらく控えるように言われたのだ」
「はあ?誰に?」
あっけにとられるレオリオに、クラピカははにかむような笑みを
もらす。
「今日、センリツから電話がかかってきたのだ。その時、彼女に
教えられたのがきっかけで、病院へ行ったのだよ」
クラピカはレオリオの手を取り、みずからの腹部へ触れさせた。
そして、花が咲くような笑顔を浮かべる。
「………………えっ?」
「というわけだから、当分の間、夜は慎むのだよ。─── パパ」
その後、レオリオの万歳三唱が近隣の住宅にまで響きわたり、
翌日には街中に朗報が知れてしまった。
─── 身体の奥から呼んでいたのは、まだ目に見えない小さな
鼓動。
クラピカはもう『クルタ族最後の一人』ではない。
同じ血を分けた命の誕生は、きっと天の同胞からの贈り物。
幸せになってよいのだと、祝福されているのだと実感できた。
それを伝えたくて、ずっと呼びかけ続けていたのだろう。
遠くて近い、神秘の水底から───
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