「ボーダー」   

   

『旅団は死んだ』
自分の口で言った言葉が、頭の中で何度もリフレーンする。
クラピカは、幻影旅団の頭と思われる男の死体を見てから、精神と
体が遊離してしまったような感覚に陥っていた。
地に足が着いていないような、目覚めているのに意識が遠いような。
ノストラードやセンリツと交わした言葉さえ覚えていない。
屋上に上がったのは無意識だった。
虚ろな視界の中、夜の闇に無数の光が浮かんでいる。クラピカには
それが同胞たちの魂に見えた。

『旅団ハ死ンダ』
─── 私が殺す前に。

『旅団ハ死ンダ』
─── 私の仇はもういない。

『旅団ハ死ンダ』
─── 私の目標は無くなった。

『旅団ハ死ンダ』
─── 私は もう……


黄泉の彼方からの幻聴がクラピカには聞こえる。

  滅亡したクルタ族の生き残り。この世にたった一人の哀れな子供。

  穢れた血で無駄に手を汚して
 
  その高貴な心を傷つけて

  重すぎる十字架をその身に背負って

  もう生きる必要は無い。

───
モウ…… 生キル…… 必要ハ…… 無イ…… ───

クラピカは定まらぬ視点のまま、前方へと進み始める。
まるで夢遊病者の足取りで。
 
  
同胞は既に全員死んでいる。
  もう誰もいない。


───
モウ 誰モ イナイ ……

   もう生きてゆく理由は何も無い。
 
─── モウ 何モ ナイ …… 

   
もう生きなくて良い。

───
モウ 生キナクテ 良イ ……

    もう要らない。

───
 モウ イラナイ ……


目の前には暗黒の空間がクラピカを誘うように広がっていた。
僅かな段差の向こうは同胞たちの待つ世界。それを越えるべく足を
かける。
だが次の瞬間、突然吹いた強いビル風にあおられて体が揺れた。
同時に、ポケットの中の何かが脚に触れる。
(……!)
クラピカはふと我に返った。
取り出したのは、先刻 習慣的にポケットに突っ込んだ携帯電話。
パドキアで皆と別れる直前、レオリオが贈ってよこした物でもある。
彼は新品のそれを『オレの携帯ナンバー入れてるから、連絡しろよ』と
言って渡した。

───
落ちたら、レオリオがくれた携帯が壊れてしまう。

よぎった考えに、クラピカは思わず後ずさる。あと一歩踏み出せば
その体は宙に舞うところだった。
なかば放心状態のまま、クラピカは手の中の携帯電話を見つめる。
─── わたしは…… 今…、何を……?)
フラフラと後退し、背後の壁にもたれて崩れるように座り込む。

今まで、死にたいほど辛い思いは何度もしてきた。
だけど実際に死のうとしたのは初めてだ。
自分の心が、こんなに弱かったなんて知らなかった。

クラピカは呆然と考える。

───
今なら死ねるかも知れない。
いつもいつも、無理に感情を殺して耐えてきたけれど。
私にはもう、生きる意味は無い。
─── 今しか、死ねないかも知れない………

クラピカは立てた膝の間に顔を伏せ、両手を握りしめた。
その時、持ったままだった携帯電話のボタンを押してしまったのだろう。
電子音が小さく響き、電源が入った。
(……?)
見上げた液晶画面には、メール受信の表示。
『約束を守れ』
それが最初のメールの内容。更に、次々と受信される。
『ヨークシンシティで会おう』
『オレの携帯ナンバー入れてるから、連絡しろよ』
『偽証は恥ずべき行為なんだろ?』
『顔くらい見せろよ』
『待ってるぜ』
『会いたい』

 …………

以下、無数のメールが届いた。
文面から察して、誰が送信して来たのかは一目瞭然。多少なりとも
クラピカの今の状況を予測したのか、心配して送信してくれたのだろう。
─── こんなにたくさん。
短くて稚拙な内容だが、とても彼らしい。それは空々しい慰めの文句
などより、はるかに暖かく感じる。
一通一通読むごとに少しずつ現実が近くなり、狭まって
いた視野が元通りに広がり始めた。
混乱していたクラピカの思考は徐々に落ち着きを取り戻してゆく。
(そう……だな……)
呼吸が楽になるような感覚に、大きく息を吸う。
(まだ……あいつとの約束を果たしていなかった……)
それはクラピカにとって何にも勝る重大な心残りだった。『約束』を
守らないままでは、この命を終えたりできない。

いつのまにか夜が明けようとしている。視界を埋め尽くしていた暗闇は、
潮が引くように薄くなってゆく。
少し間を置いて、最後にもう一通メールが届いた。それはゴンとキルア
からの待ち合わせ場所の指定。
『デイロード公園で待ってる』
───
朝陽に照らされて、目前を白い鳩が飛んで行く。クラピカはゆっくりと
立ち上がり天を見据えた。

───
私には 待ってくれている存在がある。

絶望に意識を支配され、他の何も思い出せなかった昨夜の自分こそが
信じられない。
待っている人がいる、大切に思う存在がある、それだけで充分なのに。
……危うく禁忌のボーダーを踏み越えるところだった。

クラピカは携帯電話をポケットに仕舞い、再び歩き出す。
今度は死の闇ではなく、希望の光に向かって。


  END    

実は元ネタは私の経験だったりする(^^;)
「発作的」というのは一番危ない。
後先考えず一瞬でボーダーを越えかねないから。
だけど戻るきっかけは些細で単純な事なのです。ホントに。