「バンシー」 〜嘆きの精霊〜 |
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遠い記憶の彼方から、バンシーの叫びが聞こえる。 あれは風。 遮るものとて無い死の街を乾いた大気が通り過ぎる音。 忘れられない辛い思い出の光景。 一面の焼け野原と化した故郷で一人立つクラピカを、空気さえもが 取り残してゆくように冷たい風が吹いていた。 慈しみ育んでくれた家族も、友人も隣人も、同胞の誰もが眼球の 無い無残な亡骸と成り果てた中、クラピカはなかば放心状態で 立ち尽くす。 一瞬にしてすべてを失った驚愕と衝撃は悲しみを凌駕していた。 もはや生者は誰もいない。 しかし、激しく吹く風にまじって誰かの声が聞こえる。 薄暗い焦土の中、一人のバンシーが気も狂わんばかりに泣いていた。 地に伏すようにして座り込み、顔を覆う両手の隙間からは、とめども なく涙が流れ続けている。言葉にならない絶叫は、愛する者を失った 悲しみを訴えているのだろう。 彼女の前に横たわるのは、粘つく銀灰色の糸に幾重にも巻かれた 男の死体。 それが誰なのかクラピカにはわかっていた。 蜘蛛に食い殺されたのはスクワラ。泣いているのは遺されたエリザ。 目前にあった幸せを一瞬で打ち砕かれた恋人たち。 深すぎる嘆きが彼女をバンシーに変えてしまったのだ。 (……?) ふと、クラピカは気付く。 バンシーと化し、身も世もなく泣き崩れているのはエリザではない 事に。 死体の男もスクワラより長身で短髪の別人だが、クラピカはその 容姿に見覚えがある。 (─── レオリオ!?) レオリオだった。 彼は全身を蜘蛛の糸に絡められ、腹まで引き裂かれた胸には 逆十字の杭が突き立てられている。 更に、両の目をえぐり抜かれていた。 ─── かつての同胞と同じように。 レオリオの顔は鮮血にまみれ、眼球の無い空洞がこちらを向いて いた。 (どうして……) なぜ殺されたのかはわかっている。緋の眼を守ろうとしたからだ。 ─── ただそれだけの理由で。 あまりにも残酷に、あまりにも理不尽に、命を奪われた。 夢もなかばで叶わぬまま。 何ひとつ罪は無いのに。 希望に満ちた将来を歩めるはずだったのに。 (…レオ…リオ……) 呼びかけても返事は無い。 絶望がクラピカの胸をしめつける。苦しくて、呼吸もできない。 目の前が無限の闇に覆われてゆく。 (そんな…… …そんな、イヤだ…レオリオ!!) 冷たくなった体は二度と動かない。 二度と声をかけてはくれない。 二度と笑いかけてはくれない。 ─── もう二度と還らない。 (イヤだ!─── イヤだ、レオリオ──── !!) バンシーが哭く。 愛する人の死を嘆き、悲しみの世を呪いながら。 ひび割れた心は癒されることなく、ただ慟哭し続ける。 ─── 永遠に。 「…レオリオ、レオリオ─── ……!」 「クラピカ!おい、クラピカ!!」 体を揺さぶる感覚に、クラピカはハッと目を開けた。 霞む視界にレオリオの顔が飛び込んで来る。 「……大丈夫か?ひどくうなされてたぞ」 「あ…!!」 心配そうにのぞき込むレオリオに、クラピカは思わずしがみついた。 「どうした?悪い夢でも見たのか?」 レオリオは戸惑いながらもクラピカの背を抱き、優しく撫ぜる。 (ユメ……) その単語がクラピカを現実に引き戻してゆく。それでも鼓動はいまだ 激しい動揺に鳴り、体は震えている。視界が不鮮明なのは涙で潤んで いる為か。 ─── 恐ろしい夢だった。 熱で混乱した意識が、五年前の記憶と センリツから聞いた話とを 結びつけて、あんな夢を見てしまったのだろう。 クラピカは壊滅したクルタの村跡で、吹きすさぶ風が慟哭のように 聞こえた事を覚えている。 そしてスクワラを喪い、嘆き悲しんでいるであろうエリザを無意識に 想像してしまっていたから。 恐怖感がクラピカの身を震わせる。 夢とはいえエリザに自己投影してしまったのは、現実になりえる 可能性があるからだ。 (レオリオ……) クラピカは夢の中で逆十字の杭が打ち込まれていたレオリオの胸を、 服の上から確認する。 当然だが、どこにも傷は無い。顔を上げると、サングラスの奥に 両眼も健在である。 「……何だよ?」 不思議そうに苦笑するレオリオを見て、クラピカはようやく落ち着きを 取り戻した。 だが不安は消えない。 ─── もしもレオリオが蜘蛛に殺されたら。 考えたくない事だが、絶対に無いとは言い切れない。 仮に、今後もう二度と旅団に関わらなくても、遅かれ早かれクラピカの 情報は漏洩するはず。 そうなれば、いずれレオリオの存在にも気付かれるだろう。 彼が狙われない保証など無い。 いつかレオリオもスクワラのように、緋の眼─── クラピカを守って、 エリザ─── 恋人を遺して、非業の死を遂げてしまうかも知れない。 「レオリオ………!」 喪失の既視感に怯え、クラピカはレオリオにすがりつく。 自身の死はまったく恐れず、心臓に念刃を刺す事もいとわないが、 レオリオの死だけは恐ろしくて仕方なかった。 死なないでほしい。 喪いたくない。 ずっと、そばにいてほしい………… 「─── オレは、そう簡単には死なねえよ」 クラピカの髪を撫ぜながら、レオリオはつとめて明るく言った。 体調不良が日頃の虚勢や冷静さを失わせているのだろう。 クラピカは悪夢を見る事を恐れてか、眠ろうとしない。 やむなくレオリオはクラピカを布団に寝かせた隣で、添い寝の 体勢で横になっている。 「まだ医者にもなってないし、他にもやりたい事たくさんあるんだぜ。 心配しなくても、殺されやしないさ」 「─── ……」 「大丈夫だって」 「─── ……」 「だからな、余計なこと考えずに寝ちまえよ」 「─── ……」 何度繰り返してもクラピカの不安気なまなざしは変わらない。 旅団の力量を知っているだけに、口先でいくら宥めても説得力は 無いのだろう。 レオリオは胸の中にクラピカを抱き寄せ、改めて言った。 「オレは絶対に死なない。─── お前がいるのに、死んでたまるかよ」 「……レオリオ…」 密着した胸からレオリオの心音がクラピカの耳に届く。その力強い 鼓動は活動している生命の証。 「今もこうして生きてるんだ。これからも、何があっても、何をしてでも 生きてやる。オレ自身の為に、そしてお前の為にな」 真剣な声には明確な強い意志が込められていて。 「お前はバンシーになんかならない。そんなものにはオレがさせない」 「レオリオ……」 優しい声や鼓動と共に、体を包む体温が安心感を与えてくれて、 クラピカの心が少しずつ軽くなってゆく。 「オレはここにいる。ずっとお前のそばにいるからな…」 「……ん……」 「大丈夫だよ、クラピカ……」 「…………」 レオリオは生きている。確かに今ここにいて、抱きしめてくれている。 夢のように死んでしまったりはしない。 その事実を実感できる音を聞きながら、クラピカは吸い込まれる ように眠りに落ちた。 それを確認してからレオリオは布団をかけ直し、まだ少し熱い クラピカの額に冷たいタオルを乗せてやる。 そして起こさないように気をつけながらクラピカの手を取り、その 甲に口接けた。 握った手は離さないままレオリオは静かな寝息をたてるクラピカを 見守り、もう一度、心の中で告げる。 (─── お前は絶対バンシーにはならない。オレが幸せにするんだ からな) 『大切な存在』は、弱点になるかも知れないけれど、今更手放す ことなどできない。 得たからこその想い、そして今の自分があるのだから。 出会わなければ良かったなどとは、決して思わない。 手から伝わるぬくもりが優しく心を包み込んでゆく。 バンシーの声は、もう聞こえなかった。 |
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END ※「バンシー」とはアイルランドの伝説に登場する、 |