「Healing Voice」  


 ─── 『旅は道連れと言うでしょう』───

とても優しい声だった。
わずかな時間を共有した相席者の、うたうような声音が今でも
耳に残っている。
もう誰とも関わるまいというクラピカの決意を溶解させてしまった、
不思議な女性。
彼女の言葉を受けてクラピカの脳裏に蘇ったのは 数ヶ月前まで
『道連れ』だった者達の面影。
その内の一人の顔が目の前をちらついて離れない。
(レオリオ……)
心の中で名前を呼ぶ。記憶の中で、彼は以前と同じ明るい笑顔を
向けていた。
(今頃、どうしているだろう……)
受験勉強ははかどっているだろうか。
無理をして体調を崩してはいないだろうか。
医者の不養生というから……いや、彼に限ってそれは無いだろう。
だが、考え始めると、想像は止まらない。
クラピカはそばのベンチに荷物を置き、ポケットの中の携帯電話を
取り出した。
─── 勉強の邪魔になるかも知れない。いや、時間的にもう
眠っているかも…)
しかし思考とは裏腹に、指は勝手にボタンを押している。
それは一度も押した事のない、だけど一桁も間違えないほど暗記
しているナンバー。
別れ際、レオリオは「電話してくれよ」と言って、番号を書いたメモを
渡してよこした。
だがクラピカは、何度も受話器を手に取りはしても『職が決まるまで』、
『念を習得するまで』、『正式に雇われるまで』と、あえて先延ばしに
して、結局かけてはいない。
無意識に彼から遠ざかろうとしているのだろう。その自覚はある。
なぜならレオリオと出会って以来、蜘蛛に対する怒りや復讐心が
薄れてゆくような気がしていたから。
目の前にある嬉しさや楽しさ
─── 自分の幸せを優先してしまい
そうになるのが怖かった。 
なのに今、プッシュボタンを押す指は止まらない。
最後の数字を押し終えた時、クラピカの胸に期待と後悔が同じ
比率で押し寄せた。
すぐに切ってしまおうかとも思ったが、それでは悪戯電話だ。
だけど、特に用事があるわけでもない。レオリオが出ても、何を
話せば良いのだろうか。
規則正しい機械の受信音が鳴る。
(…3コールで切ろう)
最初の呼び出し音の後、クラピカはそう決断した。
2回目のコール。レオリオは出ない。クラピカは今の自分の感情が
『安堵』なのか『残念』なのかわからなかった。
最後と決めた3コール目が始まる。すると同時にガチャッと激しい
切り替えの音が響き、続いて大きな声が流れた。
─── クラピカっ!?』
「!? 」
思わぬ状況にクラピカは硬直する。
『久しぶりだなあ、元気だったか?オレずっと待ってたんだぜ。
なんでもっと早く電話して来ないんだよ?……おい、聞いてんのか?
クラピカ』
「……聞こえている」
当然のように話しかけられて動転していたクラピカは、ようやく
口を開いた。
「まだ名乗っていなかったのに、なぜ私からだとわかったのだ?」
『このナンバーはお前にしか教えてないからだよ。ホームコード
とも別だし』
素朴な疑問はサラリと返答される。
電話の向こうで笑っているレオリオの姿を想像し、クラピカは
つられるように微笑した。
先刻までの逡巡は嘘のように消えている。
「……久しぶりだな、レオリオ。元気か?」
『ああ、もちろん元気さ。お前は?』
「私も元気だ」
他愛のない挨拶さえ心が弾むのを抑えられない。電話越しでも
耳にしみいる懐かしい声は、クラピカの中の凍りついた感情を
優しく和ませた。
『……けど、なんかあったのか?ずっと音沙汰なしだったくせに、
突然電話して来るなんてさ』
(さすがに鋭いな)とクラピカは内心感心する。
「列車内で相席した人物に『旅は道連れ』と言われただけだ。それが
あまりにも優しい声だったもので、気がゆるんだのかな。……お前の
声を聞きたくなったのだよ」
クラピカにしては珍しく素直に心情が口に出てしまうのも、彼女の
声の効果かも知れない。
『……そりゃあ嬉しいけど………イイ男か?』
「は?」
電話の向こうから複雑な声が尋く。
『相席した奴。オレよりイイ男だったのかよ?』
予想外の問いにクラピカは失笑した。
「何を言うかと思えば……相席者は女性だ。お前とは比較できない」
『なんだ、そうか』
照れたような笑い声を聞く内、クラピカは胸のあたりがあたたかく、
そして穏やかに凪いでゆくのを自覚した。
そして実感する。
(
─── 私はずっと、ずうっと、彼の声を聞きたかったのだ……)
明るくて、饒舌で、どこか気取った響きを含んで流れる優しい声。
聞きなれた低いトーンはとても心地良く、全身を包みこむかのような
錯覚を呼ぶ。
『早くお前に会いたいよ』
「…ああ」
胸が一杯で、うまく言葉が出ない。下手に口を開いたら、涙の方が
出そうだった。
『TV機能つきの電話にすりゃよかったな。今度買うから、また
ナンバー教えるよ』
クラピカはむしろTV機能の無い電話で良かったと安堵している。
今の泣きそうな顔を見られるのは、あまりにも恥ずかしい。
近況を語るレオリオに相槌を打ちながら、クラピカは彼の一言一句を
聞き逃すまいと耳を傾けていた。
『…もっと頻繁に電話して来いよな。オレもお前の声を聞きたいし、
いつでも待ってるからさ』
「ああ」
もうしばらくレオリオの声を聞いていたかったが、乗り継ぎの列車が
控えている。
クラピカは夢のような時間を終えるべく、閉じていた目を開けた。
「……勉強の邪魔をして悪かった。そろそろ切る」
『クラピカ』
「何だ?」
『ムチャすんなよ』  
「ああ、わかってる。…ありがとう」
『クラピカ』
「ん?」
『えーと…、んーとな…』
名残りを惜しんでいるのが手に取るようにわかる。クラピカは同調
半分・困惑半分で
苦笑した。「もう切るぞ。列車の時間なのだ」
『クラピカ!』
「何だ」
『オレの名前……呼んでくれよ』
「…レオリオ?」
『そう、も一回』
「レオリオ」
『も一回』
「一体何なのだ?レオリオ」
少しあきれた口調でクラピカは問う。やや間を置いて、困ったような
声が返答した。
『…お前の声に、名前を呼んでほしかったんだ』
「……レオリオ」
『もういいよ。ありがとな、クラピカ』
どんなセリフよりも聞きたいのは、愛しい相手の呼ぶ自分の名かも
知れない。
それだけで互いの想いと感情は伝わるのだから。
「…では、元気でな。
─── レオリオ」
『また電話しろよ、クラピカ』

結局、最後に発したのも互いの名で、惜しみつつも通話ボタンを
切り、クラピカは携帯を再びポケットに仕舞う。
今にも泣き出してしまいそうに目頭が熱い。きっと頬も紅潮して
いるのだろう。
胸は先刻から高いリズムを刻んでいて、暖かな波動が全身に
広がっているような気がする。
─── 声だけでこの有様では、顔を会わせたらどうなってしまう
のだろうか……)
予想もつかない醜態をさらしてしまいそうで、レオリオに会うのが
怖い。
─── だけど、会いたい。
人間は我侭なものだと、クラピカは自嘲気味に笑った。
不思議なことに、心と体に科した鎖の重さを感じなくなっている。
まるで枯渇した大地が潤されたような充足感。胸の奥から新たな
エネルギーが湧き出して、全身を満たしているかのように思える。
こんな気分になったのは何ヶ月ぶりだろう。星の煌きや夜風の
囁きさえも嬉しく感じる。
体中があたたかくて、弾むように心音が軽い。
『クラピカ……』
耳の奥でレオリオの声がリフレーンする。あんなに迷っていたけど、
やはり電話して良かった。
声に癒しの作用があるなんて知らなかったけれど、レオリオのみならず
相席した女性に対してもそう思う。
記憶の中で優しく笑う彼女に感謝しながら、クラピカはホームを
歩いて行った。
  
まっすぐに、前だけを見つめて。

          

END